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Wednesday, January 3, 2018

9年目

じん、お墓参りに行ってくれてありがとう。
パパは9年経っても、ぜんぜん変わってないよ。また、スキー場に来ている。
元日に札幌に飛行機で来て、2日はちゅけと氏家さんと一緒にニセコまでバスでやってきて。
氏家さんは仕事があるから日帰りで。
ちゅけも修論の追い込みだから一泊だけして、もう帰って。
明日から3日間は一人残ってバックカントリーだよ。
結局、残っているのは僕だけなんだ。
祐馬はオーストラリア、ちゅけとパパは北海道。あちこちから、ママを悼もう!
結局、東京にいるのはじんだけだし。
じんが自分から俺お墓参りに行くと言ったのは嬉しかったぞ。バイクで行ったんだろ?高速じゃなくて下の道を通って。行った証拠に写真も送ってくれたから、パパは安心だ。

優子を失い、両親も失って、愛着対象の重要性に気づいたよ。
空気のような存在だから、それがある時は、その存在の重要性に気づかない。
ちゅけが札幌を、祐馬がオーストラリアを選んだのも、氏家夫妻とRichardson夫妻という安全基地があったからなのだ。
二組とも子どもたちが生まれるずっと前から優子と僕が親しかったことを、子どもたちは良く知っている。
優子がいなくなっても、子どもたちの基地は失われなかった。
そのこと自体が僕の安心でもある。

子どもたちは良く自立してくれたよ。
北海道とオーストラリアと東京で、三者三様に頑張っている。
自立出来ないとどうなるか、仕事柄良く知ってるから。

もう優子のことをどうこう言う必要はない。
要は、残された僕らがどう生きるかということなんだ。

Thursday, December 28, 2017

ヒマになっちゃった。

ご飯を作ってあげる人がいなくなっちゃった。
優子がいた時は、交代で作っていた。優子の友達を家に呼んで僕が料理した時、「まあ、素晴らしいダンナさん」とか褒められたりして。
優子がいなくなって、僕が作って。
祐馬が帰国した時は、ご馳走を作って。
ばあちゃんがご飯を作れなくなっちゃったので、僕が作って。
ばあちゃんは、ホームでは食おうとしなかった。僕がヨーグルトかプリンを持って行ったら食った。
それも食べれなくなって、亡くなった。
ちゅけと祐馬は家にいない。
じんはいるけど、バイトで遅い。
遅くなくても、「俺、勝手に自分で食うから」。
自分でやりたい年頃なんだよ。親の飯は食いたくないんだ。
肉が食いたいといえば、メガドンキの硬い牛肉を焼いてやるのに。
昨日はスペアリブと大根の煮込みを作った。じんも食うかと思ったけど、食わなかったから、一人で食った。
僕の作った飯を食ってくれる人はいるんだろうか?

料理は好きなんだよね。
高校の山岳部で良く作ったよ。
山行で疲れきってテント場に着いて、テントを設営して、水を汲んできて、ガソリンストーブをプレヒートして、米を炊いて、カレーか豚汁を作って。えらく大変だったけど、それはそれで楽しかった。朝食の味噌汁に出汁を入れ忘れたり、決してうまくなかったけど、仲間たちと食う飯は旨かった。
大学に入って、まずい吉池の学食は使わずに、寮で自炊した。冬はスキーに行く金を貯めるために、豆腐と白菜と納豆のご飯だったり。

これまで、一生懸命に生きてきたんだよね。
自分のキャリアを作るために。
優子のために。
子ども達のために。親のために。
そういうのが、なくなっちゃったんだ。

そりゃあ、子ども達のためにはもうしばらく続くけど。
お金を出して、遠くから見てるだけでいいから。今までのように手間ヒマはかからない。ご飯も作らない。

僕のキャリアはできちゃったんだ。それなりの評価は得ている。
AAFTのつくば大会はすごく成功して、世界各地から講演のお声がかかる。ホントにInternationalになっちゃった。
セラピーもまあまあうまくいっているし。

このままでも良いし。そんなに儲ける必要もないし。
でも、もっと頑張る余地はある。頑張ろうかなぁ、どうしようかなぁ。
書かないとダメだよ。
国際誌に投稿して、professional向けの論文や本を書いて、世界にアピールする。英語でね。
国内のクライエント向けにも啓発書を日本語で書く。ネタは十分にあるけど、まとめるほど腰を据えて落ち着けない。すぐに、どこかに行っちゃうからね。
ちゃんとやらなくちゃダメでしょ。
仕事面では、まだまだやることはある。

でも、プライベート面でやることなくなっちゃった。
うちに帰っても、誰もいないし。
正月の集まりも今年はやらないし。
お墓まいりでも行ってくるかなぁ。車じゃなくて、電車とバス(あるいは自転車)で。
正月にはちゅけの北海道に行くし。
2月には祐馬のオーストラリアに行くし。
スキーも、自転車も、登山もあるし。
プライベートを満たす手段はたくさんあるのだけど、、、

仕事でも、誰かと必死に関わる必要がなくなったんだ。
ソロでできる。そうしたかったから大学を辞めて開業したんだけど。
もし、大学を辞めていなかったら、今頃、なんとか委員会の委員長とかやらされて、学生やらわからんちんの教員や事務員相手にえらい目にあっていただろう。
人との関わりの中での生きがい。
えらく面倒だけど、それは何かをやっているという実感(満足感)があるんだよね。常に人と関わっているから。
人との関わりの中から喜びも苦しみも生まれる。
人との関わりがなくなっちゃら、何も生まれなくなる。

そんなこと言ってないで、ソロで生きることができるようにならなくちゃダメでしょ>自分。寂しいとか、言ってないで。

学会長をやらされるかなぁ。
これまで逃げ回ってきたけど、立場的にはやるポジションになっちゃった。年齢的にも。
そしたら、人とのしがらみができてくる。

しがらみは辛いから、学会長から逃げるか。
ソロは辛いから、学会長へ逃げるか。
まあ、そこまでみんなが期待してくれるかは分かんないけどね。

なんだかんだ言って、よっぽど承認を得たいんでしょ!

Tuesday, December 12, 2017

多摩サイ

仕事で多摩地区に行くことが二月に一回くらいある。
天気さえよければ、多摩川を自転車で走る。
今日も気持ちが良い。冬の小春日和。天気は快晴。富士山が見えるよ。
日本海側は猛吹雪だって。今年の冬は雪が多そうだ。もうスキーシーズンが始まってるよ。

多摩サイを走り始めたのは優子がまだいた頃だ。小金井市まで片道30km。
初めの頃は、往復するとヘロヘロだったが、今は全然大丈夫。体力ついたよ。
優子を失ってからは、優子を想うロードになった。
登戸付近を通過して、優子の実家の近くだ。もうあまり行かないけど、時々おばあちゃんを訪ねる。

さすがに、もう優子は入ってこないよ。
でも、9年前の僕の気持ちが入ってくる。涙を流しながら走っていたもんなぁ。
走っていると、いろんな連想が出てくるんだ。今、何を一番考えているのか、想っているのかがよくわかる。優子のことや、原稿のアイデアとか。
今も途中のベンチに停まって書き留めている。
一つのアイデアが出て、もう一つ別のアイデアが出て。
三つ目が出ると、一つ目を忘れちゃうんだ。フワフワのイメージが出たり入ったりする。だから、二つ目が出た段階で書き留めておく。

チャリが一番良いんだよね。アイデアがよく出てくる。
電車だと寝ちゃうか、スマフォいじるか。
飛行機の国際線は長い時間を取れるのだが、窮屈で狭い。映画見たり、飯食って酒を飲んじゃう。国内線くらいが良いかな。
その点、チャリだとスマフォも映画も酒もないし、居眠りもできない。しっかり目は覚めているが、頭は何もやることがない。特に多摩サイは信号もなく広々のんびり走るのでイメージを膨らませる宝庫だ。

多摩サイは僕の原点になっちゃったよ。
僕にはたくさんの原点があることがわかった。学会誌に「私のターニングポイント」なんていう原稿を書かされたからね。
・6歳、祖母の死:「死の発見」と恐怖
・AFS :国際デビュー
・JASC:優子との出会い
・London:専門家としてのidentity
・36歳:父親になる
・優子の喪失:そうか、多摩サイは優子を消化するスペースだったのか。走りながら、優子と向き合ったよ。
ターニングポイントとは、何かを得て、何かを失うポイントなんだね。

次のターニングポイントはいつだろう?
順番からいくと、何かを得る番なんだけど、、、

Thursday, November 23, 2017

母の終焉日記7

 例年になく寒さの厳しい冬の到来となりました。
 御母上様が昨年10月にお亡くなりになりましたとのこと、悲しみと寂しさが胸にこみ上げてきます。
 ご家族にありったけの愛情を捧げられた一生を送られたことと思います。
 御母上様はどのようなご様子なのかと思いながらも、近頃は疎遠になり本当に申し訳なく残念な気持ちでいっぱいです。
 学生時代も、その後も尊敬する大切な友人であったこと、感謝いたします。
 どうぞ御母上様の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

S 様
 ご丁寧なお手紙ありがとうございます。
 Sさんのことは、子ども時代に母の手を引かれてお目にかかったことが遠い記憶にあります。女学院時代にとても親しくさせていただいたこと。私と同年代の息子さんがいらっしゃることなど。
 母は、2年前の1月に父を見送ってから、伴侶を失った悲しみから抜けきれず、「私はもういつ(この世から)おさらばしてもいいのだから。」とよく口にしていました。昨年の1月に転倒して腕を骨折し、骨折自体は大したことなかったのですが、一気に認知が低下してしまいました。4月には近所の老人ホームに移り、落ち着いた生活をしばらく送っておりました。8月に肺炎のため大学病院に救急搬送され、肺炎自体は落ち着いたのですが、食べ物が喉を通らなくなり、栄養の点滴もできず、入院したまま10月に静かに息を引き取りました。安らかな最期だったと思います。
 おっしゃるとおり、母は家族の愛情の中で生きた人でした。

Saturday, November 18, 2017

絶対的に困る人

昨夜は飲みすぎた。
今朝、見事に飛行機に乗り遅れた。
5時に起きるはずが、目が覚めたのは8時過ぎ。
あ〜あ、やっちゃった〜
もういっそ石垣島に行くのやめようかなとも一瞬思ったけど、どうせ週末ずっとヒマだし、気を取り直して行くことにした。バカ高い普通料金の航空券を買い直してね。
別に行く必然性はないんだよね。
一人で自転車乗りに行くだけだから、僕が行かなくても誰も困らない。

先週、学会も終わった。
これは僕が学会長で、僕がいないとみんな困っただろうから、頑張っていたけど、それも無事に終わったんだ。すごい成功だったよ。

ばあちゃんが亡くなってから、なんかすごく楽になったというか、心がヒマになったというか。
僕がいないといけない、生きていないといけないという必然性から自由になった感じ。
ばあちゃんは、僕がいないと生きていけなかった。
そりゃ、もしいなければ妹か、社会福祉がなんとかするだろうけど、やっぱ僕がなんとかしなくちゃいけないんだ。そういうことになっている。

ばあちゃんの前はじいちゃんだった。
あるいは子どもたち。
でも、子どもたちも成長して、もし僕がいなくなってもなんとかするだろう。
お金に困るくらいなもんだ。
それだって、なんとかするだろう。僕の生命保険もあるしね。保険金いくらだったっけ?

僕がなんとかしなくちゃいけない人が、いなくなっちゃったんだよ。
僕がもし急に死んでも誰も困らない。
そりゃ、子どもたちも、患者さんたちも、ヴァイジーさんたちもある程度は困るだろうけど、絶対的に困るわけではない。心情的なことも含めたら、子どもたちはかなり困るだろうけど、今までに比べれば、その度合いは低くなった。
優子が死んだ時は、子ども達も僕も猛烈に困ったんだよね。
生活はなんとかなったけど、心情的に。よく乗り越えてきたもんだよ。
すでにちゃんと経験しているから、うちの子ども達は父親を亡くしたって全然大丈夫のはずだ。

生きている必然性=生きがいって、自分が生きていないと絶対的に困る人がいるから生じるのかな。
じいちゃんばあちゃんが死んで、子ども達も大きくなって、そういう人がいなくなった。
この先、僕が生きていなくても、絶対的に困る人はいない。
じゃあ、生きていなくても良いのかって、そういうわけじゃないけど。
石垣島で自転車乗ったり、生きていて楽しいことはたくさんあるから生きてるけど、生きがいとか、生きていなといけないという必然性じゃないんだよね。
そう考えると、すごく楽に生きられる感じだよね。自由になったというか。

この先、パートナーを見つけて、また生きてないと困る人を作るかなぁ。。。
今は、身体的にも、経済的にも、心理的にも自活しているから、僕自身、その人がいないと生きていけない人はいないんだけど。
優子はそうだったのに、それを失って、リカバーしたから、もうこの先、いてくれないと僕が死んじゃう人はありえないんだよ。優子が死んでも、僕は死ななかったから。

でも、この先、年とって自活できない時が来るだろう。
その時のために、パートナーを確保しておきたいけど、いま現在は必要ないんだろうか。
でも、生きがいを作るには、そういう人を作るんだよね。やっぱ、生きがいはあったほうが良いのかな。より幸せになれるのかな。愛着関係が生きがいと幸せをもたらすのかな。不幸も成り行き次第でもたらすけど。
このまま生きがい(生きる必然性)がなくても、子どもたちや僕を必要とする患者さんたちを軽い生きがいにして、楽しく生きていくことは構わないんだけど、なんかオプションみたいだな。必須項目ではなくなった。

子どもたちが小さな頃は、必死に生きていた。
結婚する前だって、必死だったよ。絶対に生きていないといけなかった。
今だって、生きてはいたいし、死にたくなんかないけど、必死ではなく、ゆる〜く生きていけるような気がする。

と、乗り遅れて、高い金を出して買いなおした飛行機の中でぐるぐる考えながら書いている。
まあ石垣島に着けば、目先のやることができてこんなこと考えなくなって、楽しくなって、生きる必然性が生まれてくるとは思うんだけど。飛行機の中だけで妄想していることなのかもね。
空港に着いたら、自転車を組み立てて、宿にチェックインして、エントリーしてゼッケンを取りに行って、夕飯は近くの居酒屋さんにして、明日は寝坊しないように早く寝て、、、

客室乗務員って、すごい人気の職業なの?給料いいの?
きっとそうだよね。日本のCAってレベルが高いというか、すごいサービスいいよね。いつもニコニコして、美人ばかりだし。顔が引きつらないのかなぁ。
外国のスッチーはおばちゃんばっかで無愛想だし。

国内線の飛行機の中でもネットに繋がるようになったんだね。
でも有料だから繋がないけど。
あるいは、この記事をアップするために繋げちゃおうかな。
石垣に着いたら、バカらしくなって、アップしなくなっちゃうかもしれないから。

Thursday, November 16, 2017

54回目の誕生日

もう、優子の誕生日なんて、ほとんど忘れてるところだったよ。
でも、かろうじて覚えていた。
10月の結婚記念日は忘れちゃってたけど(笑)。
もう、いいよね!?

今までの誕生日カードは、子どもたちの様子を報告していたけど、なんかもうしなくてもいいかなっていう感じ。
じんも大学生になって、しっかりやってるよ。
ちゅけも祐馬も、それぞれの世界を作って頑張ってるし。
金はかかるけど、もう親があーだこーだ言う余地もなくなっちゃった。

今度は、僕自身だね。
優子は、
祐馬がOKしたら再婚していいよ、
なんて突然言ったことがあったよね。

祐馬も、だいぶ前に、
パパ、女の人とか言うけど、まだ早い。ママのこと忘れちゃったの?
何年経てばいいの?
10年!
って言ったよね。
もうすぐ10年だよ。
僕も還暦を迎え、そろそろ誰か見つけるよ。
なかなかうまくいかないけど(笑)。

この一年、なんか、いろんなことがあった印象だな。
Life is so exciting.

Saturday, October 14, 2017

母の終焉日記6

気遣っていただき、ありがとう。
見送るのは慣れちゃってるので、そんなに疲れも出ないんですよ。

見送りに慣れるっていうのもよくないですが、親より長生きするのは親孝行ですよね。
急に寒くなり風邪が流行ってますよ。お気をつけて。

見送りに慣れるのは深い意味で良いですよ。
いや、とってもイヤですけどね。
最近の火葬場は昔と比べるとずいぶん近代的でキレイになりましたね。でも、大切な人がお釜から灰になって出てくるのは何度経験してもショックです。喪失の悲しみもあるけど、やがては自分もそうなるんだって恐怖と向き合わないといけないですから。だから、こういうのはみんな忌み嫌って避けようとしますね。
でも、結局は人生で避けて通れないこと。妻、父、母と何度経験しても悲しいのや怖いのは変わらないけど、慣れると、必死に避けなくても済むようになります。なんか心が広がるというかリラックスできる感じですよ。

それが風邪ひいちゃってのどが痛いんですよ。
寒暖の差が大きい理由もあるけど、やっぱいろいろ疲れて免疫が落ちているんでしょうね。

Friday, October 13, 2017

母の終焉日記5

哀しむ暇もなく、色々と事務処理が大変なんですよね。
そういった雑務が終了すると、どっと疲れがでてしまうので、お気をつけくださいね😃

確かに、疲れが出てきているのかもしれない。
「疲れた〜」
という自覚は全くないんですよ。
でも、母の亡骸に付き添った通夜の晩から喉が痛くて風邪ひいたみたい。
昨日は真夏日くらいに暑く、今日は10℃以上低くて、寒暖差アレルギーとかTVニュースで言っていたけど。
確かに、免疫力が低下しているのかもしれない。。。

Wednesday, October 11, 2017

母の終焉日記4

午前中、区役所に行ったり、銀行、墓地とかあちこち電話したり。去年、父親の時にひと通りやったのでだいたい分かっているんですけど、面倒ですネェ〜(!)

哀しむ暇もなく、色々と事務処理が大変なんですよね。
そういった雑務が終了すると、どっと疲れがでてしまうので、お気をつけくださいね😃

お気遣い、どうもありがとう。
そういうこと、よく言われるよね。
でも、ヒマがなくても、ちゃんと哀しんでいるんですよ。
そのあたりの感情の出し入れは僕の場合自由にできるというか、もともとその道のプロだし、優子の時に鍛えられたし。
優子んときも、しばらくして疲れが出るかな、落ち込むかなと内心不安だったけど、大丈夫だったよ。そのあたりの処理能力はあるんだ。

ヒマになったよ。
今までは病院や施設との往復が大変だったけど、それがすべてなくなったからね。
残務処理があるけど、まあ大したことではない。

じんも夜遅くまでバイトだし、家に帰っても誰もいないから、こんな遅くまでオフィスにいるよ。今まではこんなことなかったし。

さて、そろそろ帰ってひとりメシを作るかな。
途中で寄って食っても良いんだけど、山メシの練習でチタンのフライパンを試してみたいからね。トランギアのメスティンも使ってみたいなぁ。買っちゃおうかなぁ。

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とかね。こういうくだらないことをブログに書いているでしょ。
ってことは、まあそれなりにgrief workをやっているんだよ。まあ、一週間程度だろうね。
優子のworkは今でもまだ引きずっているけど。

Monday, October 9, 2017

母の終焉日記3

おばあちゃんへ

一人で葬儀屋と相談していた時は、お葬式とかやらないつもりだったんだよね。
でも、昨日、妹といろいろ相談して、こんな形の家族葬をやろうということにしました。
家族葬って案外いいね。自由な形がいいと思うんだ。家族だけで水入らずで、僕みたいに喋りたい人は喋るし、静かに悼む人はそうするし。好みによっていろんな弔い方をすればいいんだよ。

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2017.10.4.@医大の病棟にて。ばあちゃんが亡くなる3日前、ベッドにいてもヒマだったから書いていたんだ。

ばあちゃんの命が終わろうとしている。
ばあちゃんが人生を終えようとしてる。

じいちゃんは年譜とか家系図とか、そういうのが好きだったから、何度も書いてきたし、僕との往復書簡も本にした。自分のことを表現して客体化したいんだ。自分の人生に意味をもたせたい。私はこうなんですと、人に伝えたい。
自分が生きてる意味って何?
自分の存在意義って何?
そんなことばかり考えていたんだろう。
僕だってそうだ。生きる意味がないと生きていけない。

ばあちゃんは、そんなこと、ちっとも考えていなかったんだろうね。
あくまで主体の中で生きていた。家族のために生きていた。
その意味とか考える意味がないんだ。
家族という狭い枠組みの中で生きている。

男は違う。
社会とか、もっと広い世界に自分の価値を見出したい。
狭い家族より、広い社会の方が良いみたいに言われてるけど、変わらないよね。優子を失ってそう思ったよ。たくさんの人から承認されたって、結局自分の喜びや悲しみや生きがいって、ごく身近な人との関わりなんだよ。

ばあちゃんの生きる意味は、じいちゃんを見送った段階で終了したんだ。
優子のお母さんは伴侶を亡くした後も仕事して、一人で生きがいを持って元気に生きている。
ばあちゃんだって、自分の生きがいを社会に求めるだけの能力は十分にあったはずだ。でもそれがベターだなんて言い切れないよね。ばあちゃんの生きた時代と社会の中で当たられた枠組みをまっとうに生きたに過ぎないんだ。

ばあちゃんが幸せだったかとか、そうでなかったかなんて、ばあちゃん自身考えたことないだろう。そんなこと、考えることに意味をもたせなかった。
じいちゃんは自分は幸せだったんだって、一生けんめい自分に言い聞かせて、納得したかったんだ。僕だって同じかもしれない。
僕がばあちゃんにできることは、ばあちゃんの人生が幸せだったんだ、意味があったんだということを証明することなんだ。
ばあちゃん自身はそんなこと求めていないけど、息子である僕がばあちゃんを弔う方法はこういう方法なんです。

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ばあちゃんの生まれた戦前は、儒教の「三従の教え」が生きていた。女性は一生に3人の男性に従うって(父親、夫、息子)。今じゃあ時代遅れだけど、当時はそれが当たり前だった。それが女性差別だ、古臭いなんて言説は、ばあちゃんにとってはどうでもよかったんだろう。

四国の田舎の大きな商家に7人兄弟の4女として生まれ、戦後は農地改革で手放してしまったが、ばあちゃんの子供時代は、多くの土地を持ち、いわば地主だな、大家族で使用人を抱えて、経済的には恵まれた暮らしぶりだったのだろう。

ばあちゃんや勉強がよくできたんだ。
当時、田舎の女子が、四年制大学に行くなんて、まず珍しかった。ばあちゃんの姉妹たちもせいぜい短大止まりだったんじゃないかな。関西じゃ名門の女学院に行き、学生寮で生活した。都会のハイソなお嬢さんたちに混じって違和感があったんじゃないかな。女学院時代の話はあまり聞かないんだ。
当時は高等教育を受けても、女性が働くなんて問題外だ。卒後、郷里に戻り、学んだ英語で近所の子供達を教えながら、お茶やお花の花嫁修業をしていた。その時に使った長い座卓みたいなのが、私が子どもの頃帰省した時にも使われていたよ。
じいちゃんとのお見合いは初めてではなかったらしいが、その辺りも聞いても教えてくれない。
壬生川にあった紡績工場長の知り合いの◯◯さんが東京にいて、仲人となってじいちゃんとばあちゃんはお見合いをした。
半蔵門にあった東條会館(だったかな?)で結婚式を挙げたのは、ばあちゃんが23歳だった。24歳で僕を生み、26歳で妹を生んだ。

僕らが小さい頃、よく大塚のさだ子ばちゃんの家に行ったよ。ばあちゃんの長姉で、PTAとかやる前は東京で唯一の頼れる人だったんじゃないかな。ばあちゃんの兄弟は地元か、せいぜい関西エリアにお嫁に行き、東京まで進出したのは二人だけだったんだ。

毎年、夏には四国のばあちゃんの実家に遊びに行ったよ。親戚一同が集まり、いとこたちがうじゃうじゃたくさんいてね。僕らにとってはすごく楽しく懐かしい思い出でだよ。

ばあちゃんはすごく社交的なんだ。呑気で、明るくてね。PTA活動とか、すごく生き生きとしていたよ。小学校でも中学校でも副会長までやったんだ。僕の時に役員のデビューをして、妹の時に副会長までやるんだ。そんなにリーダーシップがあるようには見えないけど、人あたりはよかったんだろう。

でも、ばあちゃんは頼りなかった。
じいちゃんは私にとって同性の親だから、幼い頃は成長するモデルであり、尊敬する人で、思春期には反抗して乗り越える対象だった。ばあちゃんは反抗するまでもない、そばにいてくれる存在だった。
方向オンチで、新婚の頃は、買い物に出かけて迷子になって自分ちまで帰れなくなっちゃったとか。
喘息持ちで、布団の上げ下げができなかった。僕らが小さい頃から二十歳くらいまでで、その後はけろっと治っちゃった。今から思えば心因があったのかと思うけど。そのために、じいちゃんが布団の上げ下げをやっていた。それも疾病利得というか、ばあちゃんの弱さがじいちゃんのサポートを可能にしたんだ。

あと、僕が小学生の頃かな、ばあちゃんぶっ倒れたことがあった。
トイレから出て、気を失って、洗濯機の角に頭をぶつけて、2−3日変なことを言っていた。じいちゃんが慌てて仕事から帰ってきて、これでママは一生パーになっちゃうのかなと心配したけど。今から考えれば、起立性的低血圧による機能性脳虚血、一過性の健忘症で大したことなかったんだけど。
アメリカのホストマザーも「うつ病」で時々臥せっていたし、僕にとって女性というのは、強くないし、守ってあげないといけないと思っていたよ。

ばあちゃんは、家庭人としてとても立派な仕事をしたと思う。
2人の子どもはどうにかまともに成長して、家庭を作って、孫が5人、ひ孫が一人。みんな幸せにしている。かな???
ばあちゃんがやるべき仕事はしっかり全うしたんだよ。

僕は仕事柄、家族療法、多くの家族を見てるけど、そうでない親子や家族ってたくさんいるんだ。それと比べるのも悪いけど、うちには、しっかり安全感があった。安心して生活して、成長できた。そんなの当たり前なんだけど、そうでない人からすれば、これってすごいことだと思う。

じいちゃんも頑張ったし、ばあちゃんも頑張った。
ばあちゃんが楽しんで、幸せそうにしている姿を家族が見て幸せになって、そういう家族を見てばあちゃんも幸せになって。ばあちゃんは、ぶつぶつ文句を言ったりしていたから、ばあちゃん自身に言わせればあーだこーだと不満はあるだろうけど、少なくとも僕は子ども時代も、結婚するまでも、結婚してからも、両親は僕にとっての安心基地だったんだ。

そんなの当たり前だけど、そうでない家族もたくさんいるんですよ。

この9年間も、ばあちゃん、じいちゃんにはとてもお世話になったよ。
それまで、優子と一緒に幸せな家庭を作ろうとしていたけど、優子が突然いなくなっちゃうものだから、幸せじゃなくなっちゃう危険、危機状態だったと思う。
3人の子供達に、そして僕自身がどうやって安全基地を確保するか。普通に生活するならできるだろうけど、安心できる良い家庭を作れるかなんて自信はない。必死だったけど、ばあちゃんとじいちゃんがいたおかげで、どうにかやってこれたと思う。

でも、それがばあちゃんには負担をかけちゃったようにも思う。優子が亡くなってから、ばあちゃんは「老人」になってきたなあと、なんとなく感じてた。大変だったよね。ごめんね。でもありがとう。

さっき、昔のアルバムを見ながら思ったけど、上越時代がばあちゃんの人生の花だったのかもしれないね。子育てを終えて、子供達は結婚して、じいちゃんばあちゃん二人の生活だった。孫もできたし、子ども家族を追ってイギリスやブラジルに海外旅行したり。
じいちゃんが上越教育大学を定年退職した後、青森に行き、しばらくしてじいちゃんの膵臓転移が見つかって手術してからは、じいちゃんのケアで、だんだん老後に入って行ったのかな。そして、嫁さんが突然いなくなり、孫の世話をして。
その辺りから、ばあちゃんの心配性がひどくなってきたように思う。孫たちは知らないだろうけど、若い頃のばあちゃんはとても楽天的で呑気だったんだよ。晩年の心配性のばあちゃんとは正反対だったんだ。

ばあちゃんは幸せだったんだろうか?
最期の頃は、カラダも、アタマも、いうことが利かなくなって、相当イライラしていたと思う。ばあちゃんの生きる目的は、家族を世話することだから、逆に家族に世話をされることはプライドが許さなかったんだろう。それまで、プラスだったのが、マイナスになっちゃった。

おばあちゃんは、もっと自分自身の楽しみを持てば良かったのにね。
でも、自分自身とかいったって、結局は人との関連性の中で幸せって生まれてくるものだから。例えば、僕だったら、学生とか患者さんが少しでも幸せになれば、僕も仕事をやっていたやりがいが生まれるわけだし。
ばあちゃんにとって、家族が幸せであることが、ばあちゃんの幸せなんだ。
だから、ばあちゃんが幸せな人生だったということを証明するためには、僕らが幸せでいればいいんだよ。そしたらばあちゃんの生きがいが生まれてくるんだ。

————
悪いけど、ばあちゃんが死んでも、全然悲しくないんだ。
冷たい息子なのかなぁ?
なぜか?
優子とじいちゃんの死を経験したから?
それもあるけど、ばあちゃんは、早くから僕の愛着圏外なんだよ。
愛着理論ってのがあってね。初めは子どもと保護者(主に母親)との関係のことだけだったけど、最近では、愛着関係は一生必要と言われるようになった。
ひとことで言えば、
「君がいるから元気になれる」関係
「君がいるから安心して毎日を過ごせる」関係
逆に言えば、
「君がいないと元気が落ちて、毎日の生活が辛くて不安になる」関係なんだ。
それは、揺るぎない信頼と安定感に満ちているはずなんだ。そうしないと安全と感じられないからね。

大切な人がいて、その中でも特に必要不可欠な人が愛着対象だ。
内側の人を失ったり、その人が変な人だと苦労する。ダメージを受けて、まともに生きていけない。そういう人たち、たくさん知ってるよ。
外側の人は、失ったら悲しいけど、別に生きていくには差し支えない。

例えば、妹は外側の人だよ。
子どもの頃だったら、きょうだいは同じ家族の一員で、内側の人だった。その頃に妹を失ったら、ちゃんと生きていけなかったかもしれない。
でも、大人になって、それぞれ別の家庭を築いて。
それでも、きょうだいはきょうだいだし、大切な身内だし、もし死んだら悲しいし寂しいけど、僕の人生や元気さには影響しない人でしょ。
私にとって、おばあちゃんはそういう人なんだよ。だから、お葬式では泣くかもしれないけど、身を切るように悲しくはないんだ。

優子の時はもちろん違ったよ。
僕にとっても、3人の子どもたちにとっても、ママは愛着対象だったでしょ。
失うのは身を切るように痛く悲しかったし、ちゃんと生きていけるか心配だったよね。怖かったよね。

ばあちゃんの場合は、ラッキーなことに、誰も怖くないんだ。
人間、そうなってから死ななくちゃダメだよね。
優子はダメだったんだ!

でも、そういう親子の結びつきって結構違っているというか、特に日本の親子って、母親の呪縛が強かったりする。
友人の山登敬之が「母が認知症になってから考えたこと」(2013年、講談社)という本を書いたんだ。彼は、母親の呪縛がいかに強くて、そこをどう切り離すか苦労して、本まで書いちゃったんだ。

僕は母親との呪縛は全然強くない。
なぜかというと、じいちゃんがしっかりいたからなんだ。
僕の愛着対象は、ばあちゃん以上にじいちゃんだった。
2歳で妹が生まれてママのおっぱいを取られちゃったから、僕はパパのおっぱいを触って寝ていた。幼稚園の頃も触って寝ていてね。子どもながらに、もし小学生になってもパパのおっぱいなしで寝られなかったらどうしようって、すごく恥ずかしいくて情けなかったよ。
ヤマトは本の中で中学生まで母親の布団で寝ていたってカムアウトしている!
じいちゃんがしっかり、僕のそばにいてくれたんだ。その分、母親の影は薄かったというか、そんなに頑張って子どもに関わらなくても良かったんじゃないかな。

小4でラジオ作った時も、じいちゃんは、よくやったって褒めてくれて、ばあちゃんは、電気工作とかよくわかんなくて、台所でご飯を作っていただけだったなぁ。そんなワンシーンの光景をよく覚えているよ。

じいちゃんはスキーによく連れて行ってくれて、大好きになって今でもやってるでしょ。じいちゃんがしっかりモデルだったし。ばあちゃんもスキーに一度だけ行ったことがあるんだけど、転んでばかり散々で、以来二度と行かないし。
ばあちゃんはモデルじゃないんだ。

高校AFS留学でアメリカに行った時も。
じいちゃんは行ってこいと勧めてくれて、ばあちゃんは、心配そうな表情だった。
だから、「僕は1年間、死んだと思って忘れてくれ!」と言ったそうだ。
ばあちゃんが僕のことを心配するのはかわいそうだから、心配しないでくれと言いたかったんだけど、今から考えればひどいこと言ったね。

その時、たまたまじいちゃんも在外研究でミネソタに行っていて、父と息子がアメリカに、母と妹が日本にいたんだ。ばあちゃんと妹が夏にミネソタのじいちゃんのところにやってきた時、僕がいたNorth Carolinaにも電話してきて、そっちにも行きたといってきたんだ。
僕は断ったんだ。まだアメリカに来たばかりで、適応しようと一生懸命で、二人のmothersがいたら混乱するから嫌だったんだ。ひどい息子だね。
その後、12月のクリスマスには父親ひとりで訪ねて来てもらうのは問題なかったのに。
つまり、それだけばあちゃんを突き放しても、大丈夫。母親を失うことはない。母親は安定してそこにいるんだ。昭和基地が安定していたから、突き放すことができたんだ。

ヤマトは母親本を書いて、母親の圏内から抜け出し、
僕は父親本を書いて、父親から乗り越えようとしたんだ。

ばあちゃんが僕の圏外になれたのは、
1) じいちゃんの家族への関与と、
2) じいちゃんばあちゃんがしっかり安全基地を作ってくれた
おかげなんだ。

昭和基地が安全だと、隊員は外に行ける。ボストンだってメルボルンだって。
安全な基地でないと、隊員は引きこもるしかない。

でも、こういうのって、男性っぽい考え方なんだよね。
子ども時代の愛着対象(親)を成長しながら一生懸命切りはなそうとする。
自立志向、独立志向が強いんですよ。
女性は、もっと関連性を志向している。関連性の中に生きている。

ばあちゃんを見舞いに行っても、僕はそんなに長くいないし、ばあちゃんの痛みや苦しみは、ばあちゃんの持ち物だから、医学でどうにかできなければもう仕方がない。虫歯を治す時にはちょっと痛いように、治すための痛みは請け負わないといけないし、それ以上の苦痛は麻酔でとってね、くらいにしか思わない。

でも、女性は違うみたいね。妹は、ばあちゃんのそばにずっといようとすごく気持ちを傾けて、ばあちゃんが苦しくないこと、辛くないことを何より一番に考えていた。妹にしたって、ばあちゃんは愛着圏外ではあるのだろうけど、情緒的なつながりは僕よりはるかに強いし、理性よりも感性で動いている感じだよ。
別に、それが悪いとか言ってるわけじゃないけど。