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Friday, February 27, 2009

嬉しいニュース

チュケ!

本当におめでとう!!
よっぽどパパ自身が高校に受かったときより嬉しかったよ。
ママが死んでから初めて、心から嬉しい!と思ったよ。
ちゅけが一番行きたいと願っていた高校だね。中2の三者面談で、チュケがこの学校のことを言うと、担任の先生はちょっと首を傾げていたけど、3年生になってから、本当によくがんばった。君の15年間の人生の中で、一番の快挙だよ。これから試練の階段はいくつも出てくるけど、初めの一段を見事クリアできて、パパは感無量だよ。ママも天国から、とても喜んでいるよ!!

すでにパパの身長を追い越した君が、15年前どうやって生まれてきたか、話してあげよう。そんな覚えてもいない昔話をされるのは、君にとって迷惑だろうが、パパにとっては、今の君も15年前の君も、一緒なんだ。今でも、パパが初めてパパになった記念すべき瞬間は、はっきりと覚えているよ。

それは、君が生まれる2日前だったよ。朝、ママの身体からおしるしが出て、いよいよかなと期待していたら、夕方になってママはかすかな痛みを感じ始めたんだ。君が出たいと、ママのおなかを押し始めたんだね。夜半過ぎに痛みが10分間隔くらいになってきたので、病院に電話して、このまま待って朝になって病院に来てもいいけど、どうせ眠れそうもないからと、午前3時くらいにパパが車を運転して、ママを病院に連れて行ったんだ。先生に診察してもらったけど、まだだいぶかかりますね、と言われたので、パパはいったん家に戻って、翌朝、仕事場にちょっと顔を出して、落ち着かないから、お昼過ぎに病院に駆け付けたよ。それが、誕生の前日なんだ。
 ママは痛くて眠れず、ずっと起きていたけど、君はなかなか出てこない。夜12時の診察でも、まだですねえ、、、という先生の言葉。パパは、君が生まれるまでずっとママのそばにいたかったのだけど、看護師さんが、ご主人がいてもしかたがないから、どうぞお帰りくださいと言われちゃった。パパは、イヤ、妻と一緒にいます、とも言えず、しぶしぶ家に帰って、次の日の朝、また病院に駆けつけたよ。パパもあまり眠れなかったけど、ママは痛みで眠れるどころではなく、憔悴しきっていたよ。パパはママのそばに居ても、背中をさすってやるくらいしかできないんだ。痛みが強まると、「もう、殺して~」なんて叫んだり、他の妊婦さんはママより後に病院に入ってきて、お先にお産しちゃったりするので、看護師さんは私の所に来てくれないなんてひがんだり、とにかく苦しそうだった。もう二度とお産なんかしないから、とママは言っていたよ(笑)。先生も、しかたがないからお産を早めましょうと、子宮口を開く治療をしてくれて、陣痛が始まってからまる二日間かかって、ようやく陣痛室から分娩室に入れたよ。
 となりの分娩室に入った後は早かったね。陣痛がいよいよ強くなってきて、いきみたいのを我慢しなさいって言われ、ヒッヒッ、ハーという呼吸を、パパもママの横で一緒にヒッヒッ、ハーとやって、ひっしに逃した。君の頭の黒い髪がママのおなかからようやく見え始め、最後の2-3回、はーい、いきんで、いきんで~と言われ、ママが思いっきりいきむと、君がするっと出てきたよ。さあ、早く息をしてくれと、かたずをのむ5-6秒が2-3分のように感じられ、ようやくオギャーと泣いたときは、ママもパパも泣いたよ。ホント、よかった!!ママも、それまでの痛みと苦しみを忘れちゃって、とてもうれしそうだった。ママは本当によくがんばったよ。君も必至に出てこようと、がんばったのだよね。
 夜の10時だった。分娩室の外で待っていたママのご両親も、飛び上がって喜び、病棟の電話でパパの両親に「いや~、男の子ですよ~!」と大声で話すものだから、看護師さんが静かにしてください!って飛んできたりしてね。
 君が出てきて、ママは後産とか、処置とかあるから、ご主人は、となりの赤ちゃんの所に居てあげてください。退院するまで、赤ちゃんと一緒に居れるのは今だけですから、と言われ、隣の部屋に行ったら、暖かいベビーウォーマーの中に、ちぢこまって裸の君がいたよ。まだ名前を付けてないから、何とも呼べなかったけど、ほら、君のお父さんだからね。君をしっかり育てていくよ、って心の中で誓ったのを覚えているよ。パパが初めてパパになった瞬間。ママに感謝して、出てきてくれた君を見つめていたほんの2-3分の時間は、15年たった今でも、これからもずっと、パパの心に焼き付いているよ。

 手のひらに収まるくらいのサイズだったそんな君が、今はパパの背丈を追い抜かし、高校生になるんだね!
 3人の子どもたちが、こうして成長していく喜びを、ママと一緒に楽しもうと思っていたのだけどね。しかたがないから、パパがしっかり見守っていくよ。

Wednesday, February 25, 2009

優子の心臓は永遠に!

X-ファイルからまた優子のお宝を見つけちゃった。

主治医の先生が優子の心臓の病気のことを書いた論文が出てきたんだ。当時、見せてもらったけどね。
ふたつあって、

Ishiwata, S., Nishiyama, S., et al. Coronary artery disease and internal mammary artery aneurysms in a young woman: A possible sequelae of Kawasaki disease. American Heart Journal 120 (2); 213-217, 1990.
これは、優子の一例報告。優子の心臓のボコボコの写真、つまり冠動脈がブドウの房状に動脈瘤が連発している写真がついてるよ。

Ishiwata, S., Fuse, K., et al, Adult coronary artery disease secondary to Kawasaki disease in childhood. American Journal of Cardionogly vol. 69: pp692-694, March 1, 1992.
こっちは、子どもの頃の川崎病によって、大人になってから冠動脈の病気を引き起こした5例の紹介。優子もそのひとつだね。

学術論文は、世界のどこからでも引っ張り出すことができるし、永久保存だ。
これで、優子の心臓は永久に生き続けるぞ!

木山さんin夫婦子育てサロン

優子、

木山さんが新しいアルバムを送ってくれたよ。
このブログにも来てくれてるって。

僕の研究グループが、子育て支援活動の一環として、大学の近所の人を集めてやっている夫婦子育てサロンに、木山夫妻もずっと前から参加してくれるよね。優子も一度、参加したし。子育て中の夫婦が10人前後カップルで集まって、子育てとか家族のことを話し合うんだ。母親どうしで子育てのことを話し合うってのは、よくやってるけど、そこにお父さんも参加するのが、このグループのミソだよね。はじめは、熱心な妻が、気乗りしない夫をひっぱってくるパターンが多いけど、参加していくうちにお父さんたちがだんだんと変っていくのがよくわかるんだ。4人の子どもを連れて、たいてい遅刻して、夫婦でやってきた木山さんたちはどうだったんだろうか?奥さん、けっこう熱心だからなあ。

だから木山さんが、我が家のビックニュース!歌スタに出るんだと話し始めた時は、
まあ、がんばってください。今のうちにサインもらったら、将来高く売れるかな
なんて、全く冗談で言っていたことが、Dream comes true!
あっというまに紅白に出て、メジャーになっちゃった。

木山さんの歌は、家族の愛がいっぱい。友だちとして、家族みんなをよく知っているだけに、アルバムを聴けば、情景がストンと心に入っていくよ。
ヒット曲homeは、優子の葬式中流していたので、僕らにとって悲しい曲になっちゃった。
あと、アルバムに入っていた二つの曲
ふたりでお茶して、帰ってきたら子どもたちが出迎える情景
心が震えながらプロポーズする情景。
どうしても、優子と僕の情景とクロスさせてしまい、自然に涙があふれてくるよ。
木山さんが歌で、僕がブログで、表現しようとしているのは、家族の深い愛情・かけがえのなさだよね。
こう言ってしまったら、あたりまえのお題目のようで迫力なくなるけど、
歌にしたり、家族を亡くしてみると、そのことがすごく実感として迫ってくる。
本当に切なくなるなあ。

ターニング・ポイント

優子

先日、西の魔女と二回目のカウンセリング、それにMKPの男連中とも会ってきたんだ。
英語でしゃべると、伝えにくい部分もあるけど、かえって客観的に自分のことを表現できたりするよ。
前回、西魔女に会った時はまだホント悲しくてボロボロだったけど、今回はだいぶ良くなったと言ったら、まだまだ僕はナマrawだって。
そりゃあそうだよな、優子が消えて、まだ2ヵ月経っていないもん。良くなったつもりでも、まだまだ傷は深いんだろうなあ。気長にやっていくしかないみたい。

彼女と話していて、ふたりの自分がいることに気づいたよ。
・前に進もうとする自分と、
・留まろうとする自分。
それを、魔女はextrovert(外向性)/introvert(内向性)と呼んでいた。
僕は、よっぽど外向きな人間なんだと思う。50年間、ずっとそうやって生きてきた。
だから、優子を失っても、落ち込むことはせずに、必死に悲しんで、喪の作業を進めているってかんじ。
心の危機に直面して、普段の性向がますます顕在化したように思うよ。

つくづく自分でも思うよ。こんな時に、なぜこんなに動いちゃうんだろうって。
悲報直後から保育園のみんなに部屋いっぱいに来てもらって、
その後も、たくさんの人が来てくれて、
お葬式の長い挨拶の文章を作って、
二週間後の授業で泣きながら妻の死をしゃべって、
できる限りの機会を作っては、悲しみ、泣きまくっている。
動かずにいられないんだ。落ち込むのが怖いのかもしれない。
喪の作業を進めるという心理学の定石からすれば、それは望ましいことなのかもしれないけど、
やみくもに外向性が強ければ良いというわけでもなさそうだ。

外向きと内向きのバランスが大切だって西の魔女は言ってたよ。
エクストロは広く、外に向かい、
ントロは深く、内に向かう。
家族療法はエクストロで、個人精神分析はイントロなんだって。なるほどね。これで、僕が家族療法にはまったわけがわかったよ。

優子と僕は両極に位置して、ふたりでバランスを取っていたと思う。
僕は大人数のパーティーを、優子は少人数の深い友を好み、
僕はアウトドア、優子はインドア、
僕はオーケストラ、優子は室内楽、
僕は海外に出て国際会議で発表し、優子は箱入り娘(会議通訳のブースだって)で、じっくり通訳。
結婚する前から、その差はあったけど、ふたりで生活し始めると、遠心力が働いて両者の差異が大きくなってきたみたい。僕が外向きを引き受けて、優子が内向きを引き受けるような。

優子がいなくなり、バランスが崩れたから、イントロな自分自身を開発しなくっちゃ!!
対人関係では、広げるばかりではなく、深めることを新しく会得する時期が来たみたい。
エクストロな自分は、優子を失った穴を埋めるために、新しいパートナーを求めたい、なんて実は考えていたんだ。でも、魔女にもMKPにも言われたよ。あまりに早すぎるって。ナマの傷口がふさがっていないのに、新しいグラフトを移植できるはずがない。埋めようとしたって拒絶反応が起きると、理屈ではわかっているはずなのにね。

優子が2-3年前、冗談っぽく言っていたよね。「私が先に死んだら、祐馬ちゃんが許したなら、再婚してもいいよ」って。優子も自分の命の限界を何となく感じていたの?でも、こんなに早くそれが来るとは思いもしなかったよ。でも、確かにそれは当たってるかも。子どもたちが成長し、それを受け入れられるようになる時期まで待つくらいが、ちょうど良い潮時なのかも。

それにしても、今、急に打ち抜かれた風穴はスースーさびしすぎて、身に沁みるよ。どうにか手当てをしたい。じゃあ、外に向けて新しい関係を作るのではなく、今の関係を深めたらいいかも。
今、いる友だちと、ゆっくり、じっくり、深く語りたい。そのひとつがMKPの仲間なんだ。

それと、残された家族との関係を深めよう。
祐馬は難しいよ。
僕の気持ちがちょっと離れると、父親を求めてくる。それを受けて近づこうとすると反発してくる。
まあ、それは多感な思春期の特徴でもあるのだが。怒らず、あきらめず、彼女が心地よい距離から、温かくそばに居てあげたい。

仕事もそうだな。
前から思っていたんだ。50歳は人生のターニング・ポイントだって。
今までの右肩上がりの上昇志向的ライフスタイルから、山を降りてクールダウンしていくライフスタイルへ。
前者の僕は、
仕事をいっぱい詰め込み、
たくさんの人々に会い、
学会で発表して業績を積み上げ、
自分の領土を広げていくような仕事の仕方だった。

後者を選ぶなら、
仕事を選び、
今までの仕事を文章に落としていく作業。研究業績を上げるための専門誌への論文ではなく、広く一般向けの本を著わすとか。
前者の価値観だと、一般書より専門書を目指せみたいな感じだけど、後者なら、質の高い一般書を目指すのも良いかも。

前者なら、新しい知識を求め、それを人々に広げていくような研究活動。
後者なら、少数の人とじっくり向き合い、深めてゆく中で、私が何かのお役にたてるような臨床活動。

優子の死で、僕の生き方もこれから大きく変わるよ。

Monday, February 23, 2009

子どもたちの愛着対象

優子

今日は、子どもたちのことを考えてみよう。
3人とも、とりあえず元気にはやっているんだ。
ちゅけは今日が最後の高校入試。電車の事故で2時間遅れの開始だったけど、元気に受けてきたよ。
祐馬は水泳も行っているし、学校でも元気そうだ。ピアノの方はあまりやる気がしないとか言ってたけど。
じんは、半分以上じじばばのところが生活の場になって、それなりに安定しているとは思う。最近、体操を始めたいというので、池上スポーツクラブに体験入学させたら、やりたいとか言っている。まあ、新しいことを始めるだけの元気があると考えていいだろう。
このように、祖父母やまわりの友だちに支えられ、日常生活的にはなんとかなってはいるけど、ホントに大丈夫なのかな?

もし僕が、子どもたちの年齢で親を失ったら、、、と想像したら、恐ろしくなるよ。まだまだ、子どもたちにとって、親は絶対的な存在で、親がいるから、この世で生活できるんだ。もし、親を失ったら、自分が生きていけなくなるくらい、不安で恐ろしくなると思う。
そんな状況に、突然突き落された子どもたちの心中は、ホントのところ大混乱しているのだと思う。息子ふたりは、そぶりに見せないけど、娘は時々、サインを出してくる。それを見逃さずに、キャッチしてやることが大切だな。

子どもにとって、一番身近で大切な存在である母親。
失う時期が、もう5年早かったら、もっと大変だっただろう。今なら大丈夫というわけでは決してないけど。

Pecking order、あるいは歌のベストテンでもいいんだけど、第一位がいなくなったら、第二位が自動的に第一位になるんだよね。子どもたちが小さい頃そうだった。寝付かせる時など、子どもがママにひっついている時に、僕がやってくると、子どもに蹴飛ばされ、母子一体のexclusiveな関係が維持され、第二の親である父親はカヤの外に置かれていたわけだ。しかし、優子が仕事で遅くなったりして、いない晩は、僕が一時的に愛着対象第一位に繰り上がり、僕にひっついて寝たりしていたよ。

子どもにとって、無条件の愛情と安全が得られる心の基地としての愛着対象が必要であることは確かだよね。その役を担うのは母親でなければいけないのか、あるいは、他の人でもどうにかなるのか。
一昔前は、それは絶対的に母親であるべきで、代役じゃあいま一つ落ちるという考え方でした。昔の保育園とかひどかったし、夫婦の性役割分業が固定されていたから、外部の保育者や父親はあまり考えられなかったのでしょう。でも、今は、愛着対象の代替性が平気で言われてきているように思います。
うちの子どもたちはお誕生前から保育園に預けているからね。祐馬は園長とかつんちゃんにベタベタ甘えていたし。ふたりの息子たちはドライというか、それほどベタベタしなかったけど、保育園の先生たちが十分愛着対象として機能していたのだと思う。

それでも、子どもが小さいほど、母親の柔らかい肌のスキンシップの必要度は高いのだと思う。ゴツゴツの父親ではどうしてもかなわない面もあったと思う。
幼児期から思春期へと、直接の肌のふれあいを介した身体的な愛着から、段々と、言葉やコミュニケーションを介した心理的・精神的な愛着に変わっていくんだろうね。後者なら何とか父親でも何とか代役が務まりそうだ。それに、思春期以降親から離れ、精神的な絆を外部の友だちとか恋人に求めるようになってゆく。そういう意味で、愛着対象としての母親のニーズは、徐々に後退しつつある時期ではあったんだろう。

じんは、もう半年くらい前から、母親へのスキンシップを脱しようとしていたよね。代替として、父親には来ないで、なぜかじじのところにゆき、おじいちゃんに体の一部をひっつけて寝ている。じじの体調が悪ければ、ばばのところに行くし、夜遅くまでテレビを見たいときには、しかたなく、パパにひっついているから、彼の身体的愛着のニーズはかなり低下し、また代替的なのだと思う。あと、兄貴におんぶしたり、とびかかったり、じゃれあう触れ合いの中で愛着欲求を満たしているところもあるみたい。そういう意味では、家族の中に何人も対象となりうる人が揃っているので、どうにかなるのかもしれない。

それより、これから大切になってくるのが、精神的な愛着対象としての役割だね。幸か不幸か、祐馬は、いつもの調子で結構demandingにそれを父親にも求めてくるよ。そういうサインを出してくれるから、それにうまく答えていくことができればいいのだけど。
息子たちはそういうそぶりをあまり見せないからね。かといってそのニーズがないはずはないので、どこまでやってあげたらよいのか、いま一つわからないよ。

優子と祐馬はケンカしつつも、母親に愛着対象の役割を求めていたよね。というか、母親を差し置いて、父親を子どもたちが選んでくれるかというとそうでもなかったから、父親の僕は手を出せなかった、出しても受け入れてもらえなかったという面もあったんだ。
でも、子どもたちが愛着対象第一位を失った今は、僕のやり方によっては、うまくその役割を引き受けられるかもしれない。というか、引き受けなくちゃいけないんだ。
そのためには、子どもたちが物理的にも、心情的にも、アクセス可能な近い距離に居てあげないといけないんだ。愛着を押し付けるわけにはいかない。こちらからベタベタ寄ってきても、蹴飛ばされるか、逃げられるだけだ。

ただでさえ、不安定で、自立と依存の葛藤に悩む思春期に、チュケと祐馬はすでに入ってるし、じんも2-3年後にはそうなるだろう。感情がとても豊かというか煽情的な祐馬は結構手ごわそうだな。手こづるかもしれない。チュケとじんは、同性の強みで何となく気持ちがわかる部分もあるし、あまり入り込まず、しかししっかりと外側から見ていてやろう。

僕が、しっかり安全基地を果たせれば、そこから巣立つのもそう遠くはないだろう。僕自身の場合、親から精神的に巣立ったのは二十歳前後だったと思う。それを過ぎれば、あとは経済的な支援と、結婚式のエスコート役くらいなものだろう。
(祐馬のエスコート、オレぜったいできないよ~。きっとグショグショに泣いちゃうよ~)

Sunday, February 22, 2009

海からの風

優子

今日(昨日)は、新幹線のこだまで三河まで研修に行ってきたよ。
リゾートホテルで講演して、夕食によばれるまで時間があったので、海の眺めがきれいな露天風呂に入ったよ。すごく気持ちよかった。
高台からのすごく雄大な海の景色は感動もの。でもダメなんだよなあ、こういう場所に来ると優子が出てきちゃう。
海が好きだった優子。水平線のかなたから優子が吹いてくるんじゃないかって。目を凝らして探してしまったよ。でもはっきりは肌に感じられなかった。
ダメだよね、他のお客さんがいるような露天風呂じゃあ。

Friday, February 20, 2009

カナダのジャグジー事件


優子

明日は年休取ったんだ。だから、今晩はちょっと夜更かししようかな。

昨日、直子さんがメールをくれたよ。
数日前、親戚の人が優子のお葬式のことが新聞に載ってるよ、とコピーを送ってきてくれたんだ。
直子さんがコラムに優子のことを書いてくれて、とても嬉しかったから手紙を出したんだ。そしたら、返事をくれて、彼女のブログにも優子のこと書いてくれてるって、教えてくれたよ。このブログにも来てくれているんだって。東直子さんのことは歌集も何冊か送ってくれるし、優子から話を聞いていたけど、お会いしたのはお葬式が初めてだったんだ。ほんのちょっとの会話だったけど、会えてよかった。

それに、今日はいつもブログで応援してくれているMikiちゃんに会ってきたよ。
Mikiは、ブログを読んでると、安心するって言ってくれた。
それは、僕の心情が見えるから。その内容はとても辛いものだけど、親友としてそれが見えないととても心配になるよね。いちいち尋ねるわけにいかないし。
もう一つの安心は、Mikiなりに優子を失った喪失感を、ブログで共有できるってことなのかなと思ったよ。
ひとりぼっちで進める喪の作業は辛いからね。共有する中で進めるのは、まだ心強いんじゃないかって。
そんな話をして、僕もとても救われた気持になれたよ。
別に、僕の気持ちをわかってくれなくてもいい。そりゃ無理なことだと思う。僕自身もわからないもの。
でも、僕を見ていてくれている人がいることが、僕にとっての大きな安心につながるんだ。

そのことは、夫婦でも親子でも通じるんじゃないかな。
夫婦だったら愛情、親子だったら愛着とかいうけど。
要するに、そばに居て、自分のことを見ていてくれる、認めていてくれる。
何でもわかっている、、、。
好きとか、嫌いとかいう次元とはまた違うんだよね。一緒にいれば、当然イラついたりムカついたりもするのだけど、その根底には、一緒に居ることが大きな安心につながるというかね。
その人がいるから、自分が成り立っているみたいな。
絶対、裏切らない、どんなヘンなことがあっても逃げ出さないという信頼感なのかな。
裏切らないといったって、浮気したり、3組にひと組は離婚する時代だから、そういう可能性は十分あるはずだけど、心臓マヒで突然死んじゃうのと同じくらい、ありえない可能性として、頭の隅に置く必要もないくらいな。

少なくとも、僕は優子をそう思っていたし、子どもたちもきっと母親のことをそう思っていたんじゃないかな。だとすれば、子どもたちが失った母親への愛着を、父親である僕が十分に補ってあげなくちゃいけないんだ。そのことは、また改めてじっくり考えるとして、

4年前のカナダ旅行で起きた例のあのヘンな出来事というか、面白い話をバラしちゃうね。これは、まだバンクーバーのさっちゃんにしか話していないんだ。
とても美しいリゾート地オカナガンに川上山荘という日本人の老夫婦が経営している民宿があり、家族で2泊したとき、ある家族と一緒になったんだ。すごく陽気で社交的なカナダ人のダンナと、ちょっと暗そうな日本人の奥さん。子どもたちも同じくらいの年齢だったので、仲良くなり、一緒に遊んだり夕食を食べたりしていたんだ。そこには、日本の露天風呂的雰囲気を出すためか、大きめのジャグジーがあって、自由に入れるようになっていて、みんなで交代で入っていたんだ(もちろん水着を着て)。僕は一日中車を運転して疲れていて、美味しいワインがすぐに回ってきて早めに寝ちゃったら、夜中12時すぎだったろうか、とつぜん、その奥さんが部屋にやってきて「私のダンナがあなたの奥さんのお尻を触ってます!」と怒鳴りこんできたんだ。よく状況を飲み込めなかったのだけど、要するに、優子とそのダンナが夜遅くまでふたりでジャグジーに入っていて、お酒も入ってだんだん良い(怪しい)雰囲気になってきて、盛り上がっちゃったらしいんだ。その様子をどうやら先に寝ていた奥さんが部屋の中からこっそり観察していて、さあ、いよいよニアミス、というところで踏み込んだらしいんだ。
そんなことを知って、僕はムカつき、眠れなくなっちゃって、明け方、外に出て散歩してたら優子も同じように眠れなかったらしく、ふたりで外で話したよね。

ボク)いったいどういうつもりだったんだ!?
優子)ワインも入り、話しているうちに意気投合しちゃって、彼が私を膝の上に乗せようとしたの。
ボク)どこまでなら良いと思ったの?
優子)キスぐらいまでなら。。。。
ボク)・・・・・・
優子)でも、Tikiを裏切るとかそういうことじゃ絶対ないから。許して!
みたいに、最後は懺悔調だったよね。

翌朝、4人で話し合い、僕と奥さんが糾弾し、優子とダンナは平謝り。
奥さんは、日本が恋しくなるとここ川上山荘にきていたのに、もうここにも来れなくなっちゃった、と泣きだすし。どういう経緯か忘れちゃったけど、僕が精神科医で夫婦カウンセリングなんかもやっていると言ったら、ダンナが、我々も相談に行こう、いろいろ問題を抱えているし、という話になり、奥さんは、絶対そんなことやらない、私を気狂い扱いしないで!と怒りだしたんだ。
そのあたりから、はは~ん、そういうわけねと少し見えてきて、僕のムカつきも収まってきて。帰る頃には、ダンナと連絡先を交換して、また会おうねみたいなノリだったんだけど、さすがにそれはできずに帰っちゃったよね。あの夫婦、今頃どうしているんだろう?

その後は、何事もなかったように、また家族旅行の楽しみを継続して。次の日は祐馬のリクエストで乗馬したんだけど(上の写真)、優子は寝不足でフラフラだったよね。お疲れさまでした。
そして、その二日後が右上の写真です。

Tuesday, February 17, 2009

優子を失った痛みの一考察

優子

なんか、ここのところようやく痛みが少し和らいできたみたい。
今までは、痛くて、痛くて、どうやって痛みを逃がそうかと必死だったんだけど、ここ2-3日はそうでもなくなったよ。そしたら、疑問がわいてきたんだ。

前からちょっと考えていたんだけど、優子を失った痛みって、どれくらいの大きさなんだろうってこと。
人ごとだとわかるんだけどね。
たとえば、僕の祖父は、若くして祖母(妻)と死別して、その後、90歳まで長生きしたんだ。でも、まわりから「おじいちゃんは、とても寂しかったんだよ」とよく聞かされ、子どもなりに、そりゃそうだろうなとは想像していたよ。といっても、祖母は享年55歳だったんだ。優子はそれよ10歳若いのだから、僕は祖父よりもっと寂しいわけ?まわりからそう見られているわけ?

優子 「あなた、精神科医でしょ。それくらいわからないの?」

わからないねえ、さっぱり。
人のことはわかったつもりで医者やってるけど、自分のことはさっぱりわからないんだ。

でも、専門家だし、ちょっと考えてみるね。
夫婦は空気みたいな存在とかよく言うし、優子を失って、身体の一部を失った感じ、身体を引き裂かれる思い、みたいな言い方がしっくりくるんだ。
じゃあ、その存在している時は意識する必要がないほど深くひっついているモノって、いったい何なの?

★生活面での依存?
優子がいないと、生活が成り立たない=つまりメシを作ってくれる人がいないとか、家事が成り立たないとかいう夫婦もいると思うんだけど、僕の場合はそれは大丈夫かな。僕自身ある程度はできるし、おばあちゃんとか、周りの人がたくさんサポートしてくれているから、生活はどうにか回っているんだ。

★子どもを産み育てること?
子どもを作らないカップルも多いけど、我々は作ったわけで、僕にとって子どもたちは正に生きがいだからね。優子のおかげで3人も作ることができたんだよね。その体験は最高に大きいはずだ。まだ子育ては途中なので、急に母親に消えられてしまってはとても困る。
でも、ちゅけが15歳、じんが10歳だから、まだ何とかなる可能性もあるかな。もし、優子に5年くらい前に死なれちゃったら、もっと大変だったと思う。
だからといって、今、これから僕が父親としてがんばったとしても、母親なしで子どもたちをうまく育てられるかというと、そう簡単ではない。この問題はとても重要だから、後でまたじっくり考えてみるよ。

★スキンシップ?
Sexualityってのは、やはり理屈抜きで深く結びつけるものだよね。特に若い頃、それが子ども作りと結びついていた頃は、とても重要だったし、身体レベルで深く深く結びついていたと思う。そうやってお互い身体の一部になっていったんだ。
でも、子どもたちが成長した今は、前に比べればそれほど重要ではなくなったよね。欲求がなくなったわけではないけど、若い時ほどではないし。
でも、こうやって優子を失ってみると、改めてスキンシップがとても懐かしく、それを失ったことがたまらなく寂しくなったりするんだけどね。

★心理的な愛着
やっぱりこれが一番大きいよ。
20年間、心も身体も生活も何もかも共有して、さらけ出してきたわけじゃない!子育てして、ケンカもたくさんして、いろんな苦楽を共にして、その結果、僕のことは優子が一番(いい意味でも、悪い意味でも)理解してくれている。僕のことをずっと見ていてくれる人であったし、僕の存在を支えてくれる人だったんだ。
人は、ひとりでは生きられないでしょ!?だれか、見ていて、認めてくれる人が必要なんだ。それは、親であったり、家族であったり、神様であったり、友だちだったり、同僚であったり、授業の学生たちだったり、いろんなケースがあるけど、やはり、優子が圧倒的に大きな存在だった。
その優子を急に失っちゃったわけだから、僕の存在自体が危機にひんしているといっても大げさではない。このことが、やはり一番痛いのだと思うよ。



じゃあ、僕はどれくらい痛いわけ?
パートナーを失うなんて、ありふれたことでしょ。ずっと連れ添えば、確率二分の一で経験するわけだからね。みんな、僕と同じように痛みを経験するのかなあ?

痛みは主観的な体験だから、比較できないとエニオは言っていたし、確かにそうだと思う。
痛みの大きさを、それが引き起こす結果によって推し量ることができるの?
身体が傷ついたら、血が出たり、腫れたり、骨が折れたりするでしょ。たくさん血が出たら、それだけ傷を与えた外力も大きかったということ?
でも、同じ外力でも、人によって感じる痛みは違うから、話は単純じゃないはずだ。
僕はお葬式で、テンション高く、みんなと談笑してたよね。ちょっとだけ泣いたけど。
参列した人は、それがとても痛々しかった、僕がもっと暗く、沈んでいたほうが気が楽だったと言っていたよ。
僕もそう思う。再起不能なほど落ち込み、仕事もなにもできなくなれば、それだけ僕の痛みが大きいんだということを証明できるからね。
ところが、あいにく、食欲もあるし、夜は眠れるようになったし、仕事もちゃんと(表面的であるにせよ)できちゃっているんだ。ということは、優子を失った影響はそれほど大きくなかったってことなの?
そんなはずないし...
だから、自分でもよくわからなくなるんだ。

僕自身の痛みって、どう推し量ればいいの?
・優子が死ぬにはまだ若かったから?
もし、優子との別れが30年後だったら、この痛みは違っていたのだろうか。
80歳になり、子どもたちが巣立ち、人生をやり終えたら、もっと楽に優子を見送れたのだろうか?
80歳なら、優子の死はもっと自然なこととして受け入れられたのだろうか?
でも、50年も連れ添ったら、優子は今以上にもっと深く僕の身体の一部になっていたんじゃないかな?

では、逆に、結婚後3年間で優子を失ったら?
一緒にいた年月が短ければ、痛みも軽くてすむのかな?
でも、その頃はもっと若い情熱で優子を求めていたはずだし....

・子どもがいたから?
10年前に夫を失ったはっちゃんは、子どもがいなかったから、Tikiの痛みとはまた違うだろうと言っていたよ。
確かに、母親なしで子どもたちをどう養っていくのだろう...という不安と重圧はある。
でも、逆に、子どもたちが僕を癒してくれる面もあるんだ。
今、遊馬がソファの座り、ぴったり僕に身体をひっつけてテレビを見ているんだ(笑)。
ママちゃんがいたら、絶対こんなことはなかったしね。

・死に方は?
僕は、何の予期も、心の準備もなく、突然優子を失ったよ。そういう失い方は、傷が深いの?
河辺さんは、辛い闘病生活の末、夫をガンで失ったんだ。
それは、とても辛かったけど、時間をかけて喪の仕事を始めることができたみたい。
そういう意味では、僕は、突然、何の前触れもなく喪の仕事を始めなければならい。ツケを後回しにした感じだよ。
あるいは、もし自殺だったらどうなんだろう?あるいは、交通事故だったら?
かっしーは父親を自殺で失ったんだ。その痛みは凄いと思う。もし優子が自殺だったら、なぜ僕がそれを食い止められなかったか、罪悪感で押しつぶされると思う。
もし、交通事故だったら、加害者への怒りがものすごくなるだろう。そういう意味で、だれにも怒りを向ける必要がない分だけ、まだマシなんだろうか?よくわからない。

・失恋や離婚とどう違うの?
愛する人を失うという意味では、似ているはずだよね。
振られる立場は、相手が関係を断ち切ろうとするわけだから、自分の思い込みは一人芝居だったとバカバカしくなり、相手に怒りをぶつけることもできる。
振る立場は、自らの意思で相手を切るわけだから、悲しみは少ない?
僕の経験では決してそんなことないし。
関係を切る場合でも、愛着がなくなるわけではない。愛と憎しみのアンビバレンスの中での決断だから、別れを告げるのも辛い。それに、相手に与えた辛さを考えると、もっと辛くなる。
ひろし君も、離婚だって辛いぞ!とさかんに言っていたしね。

・パートナーではなく、他の家族や親友を失う場合と違うの?
老いた親を失うのは自然の摂理とよく言うが、そう単純ではないだろう。
済んだ関係だとしても、以前は身体の一部だったはずだ。身体の一部を失う喪失感はきっとあるんだろうな。幸か不幸か僕はまだ親を失っていないから体験していないけど。

じゃあ、友だちの場合は?
こんど、りかちゃんと会うことにしたんだ。そりゃあ、一緒にいた時間の長さは違っても、家族とはまた違う、深い結びつきだってあるはずだ。特に若い頃は。
分量は違っても、優子を失った痛みは共通しているんじゃないかなと思ってね。

とまあ、こんな風にいろいろ考えてみたところで、結局、自分の痛みの深さはわからないままなんだ。

こんなこと書いているから、仕事の原稿書く時間がなくなっちゃったよ。

Sunday, February 15, 2009

ロンドン時代

優子

今日も休日チャリ通勤。
優子多摩サイは小春日和。人もたくさん出ていて、風がすごく気持ち良かったよ。

今朝は、夢の中に出てきてくれてありがとう。
優子と二人だけで会話しているんだ。
「僕さあ、恥ずかしいんだけど、2週間くらいずっと優子が死んだ夢を見ていてさ。すっごくつらかったよ。」
優子は「あら、なに言ってるのよ。」と、何か嬉しそうだったよね。

夢から覚めたら、辛かった(涙)。
はやく、この『夢』から覚めて、あの「夢」に戻りたい。

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子どもたち。

それで、昨日の話の続きだけどね、
パパとママの新婚生活は、今みんなで住んでるお家の場所だけど、前の古いお家で始まったんだ。それは、おじいちゃんが若い頃、田舎から出てきたときに建てて、パパが生まれ育ったうちなんだ。だから、パパは全然違和感なかったけど、ママにしてみれば、パパの実家に間借りしているようで、落ちつかなったんじゃないかな。でも、そこにいたのはわずか1年足らずで、翌年の秋から3年間のロンドン生活が始まったんだ。

パパは、高校時代のアメリカ留学がすっごく楽しかったものだから、また海外で生活したくて、いろいろ虎視眈眈とその機会をうかがっていたんだ。JASC青年の船に参加したのもそういう流れがあったんだ。結婚したとき、パパは医者になって5年目だったから、だいたい一通りのことはできるようになって、もっと勉強したいなと思ったの。ちょうど日本でも家族療法というのが始まったばかりで、これは面白そうだ、でも日本では本格的な勉強はできないので、どうしようかたと思っていた時、イギリスからRobin Skynnerさんという有名な家族療法家が来日したので、懇親会の時、思い切って、パパの希望を伝えたんだ。そしたら、スキナーさんは、私の所に来て勉強したらいいよと言ってくれたんだ。結婚して、2ヶ月後、British Councilから奨学金をもらえる知らせが来て、ママもパパも喜んだよ。ママは、半分英語人みたいなもんだから、イギリスに行くことは大賛成で、それまで勤めていた銀行を2年半で退職して、ロンドンに行くことになったんだ。

パパがひとりで先に行って、住むところとか見つけてから、ママは2ヵ月遅れでロンドンに行ったんだよ。ママが来るまで、パパはとても大変だったんだ。まだ、来たばかりだから知り合いもほとんどいないし、イギリスの英語はチンプンカンプンだし、ひとりぼっちで辛くてね。時間が余ったら近くの市民プールに行って、ひとり泳いでいたんだ。ママへの手紙に、
最近、潜水で50m泳げるようになったんだ。最後の方は苦しくなって、ゴールの壁めがけて必至に泳いでいる。優子が来るまで、水中に潜っている感じ。優子がやってくるゴールまであと○日。それまで頑張るしかないよ。
というようなことを書いたら、ママは喜んでいたよ。

結婚した翌年からの三年間をふたりで海外で過ごしたのは、その後の家族の基礎を作る上で、とても大切だったと思う。よくケンカしてね。その原因は何だか忘れちゃったけど。もう離婚するしかないかななんて、マジで考えたことも一時的にあったかもしれない。でも、親や友達など、まわりに相談できる人もいなくて、どうにかしてふたりで解決しなくちゃならなかったからね。小さなフラット(アパートのこと)で過ごしたママとパパの生活は、今から思えばとても懐かしいよ。

パパがBritish Councilからもらっていた奨学金は1年間限りだったんだ。でも、1年ってすぐ経っちゃって、やっとイギリスの英語に慣れたくらいだったから、パパが当初目標にしていた勉強はまだまだ達成できてない、今、帰ったら中途半端に終わっちゃうと思ったんだ。そしたら、ママが助けてくれてね。当時、まだバブル経済が絶好調だったから、日本企業のロンドン支店とかが、結構現地社員を募集していたんだ。それで、ママが金融関係の会社に就職してくれたんだ。パパもトヨタ財団から研究助成を受けたりしたけど、基本的にはママが稼ぎ手で、パパが大学院生。後半の2年間、パパはママのヒモだったんだよ。

パパは勉強、ママは仕事で忙しく、苦労も多かったけど、基本的にはとても楽しい生活だったよ。
友だちも、少しずつ出来てきたんだ。パパが一番初めに友だちになったのは、北海道のタケシ先生だよ。まだママが来る前、パパがひとりで寂しかったころ、タケシ先生がお家に呼んでくれたり、一緒にテニスしたりしてね。先生はすでに3年間くらいイギリスに留学していたからいろんなことを教えてもらったりして。知り合ってから4ヵ月くらいで先に帰国しちゃったんだけど、現在に至るまでずっと付き合いが続いているのは、スキーとか一緒に行ってるから、子どもたちもよく知っているよね。ここ数年は、タケシ先生とパパより、むしろ奥さん同士が仲良くなっちゃったみたいだったね。ママのお葬式の時は、北海道からわざわざご夫婦で駆け付けてくれてね。パパはとても悲しく、嬉しかったよ。

あとは、留学生仲間と結構親しくなったんだ。パパたちも、イギリスではガイジンだったからね。出身国は違っても、ガイジン同士の人が何故か親しくなるんだよ。特に南米からの人なんか陽気で、ママもひっくるめて良い友達になったよ。
一方のイギリス人って、何かマジメというか、とっつきにくいところがあってね。本当はきっとシャイな人が多いんだろうけど。始めのころはなかなか親しい人ができなくてね。

でも、時間が経るにつれて段々と親しくなっていったんだ。
パパは日本のいのちの電話で活動してるでしょ。ロンドンでもいのちの電話があって、サマリタンズ(Samaritans)というのだけど、外国に住んでいる日本人で、心の悩みとかで苦しんでいる人たちのために何かできないかなと思って、日本語ラインを作ったんだ。初めはパパだけが活動してたんだけど、そのうちママもやってみようかなと参加するようになってね。夫婦で仲良くボランティア相談員として活動していたんだよ。そうすると、ボランティア仲間が結構親しくなって、イギリスの人とも仲良くなったんだ。ソーホーっていうロンドンの中心の劇場なんかがたくさんあるところで活動していたから、役者さんなんかも結構仲間でいてね。そのひとりがゲイだったんだ。ふつう、ゲイとかホモとか、少し引いちゃうけど、イギリスではそんな人たくさんいたし、とてもいいヤツだったから、パパもママも、偏見なく友達になれたんだよ。

あと、イギリスで良かったのは、世代の差があまりないんだ。チャッド・バラさんというチョー有名な人がいて、世界中で初めていのちの電話を考えて作った人なんだ。つい先日90歳で亡くなったんだけど、パパやママよりずっと年上だし、偉い人だから、日本だったらそんな人と親しくなれないでしょ。でも、チャッドはとても気さくで、日本から来た若造のパパやママにもとても親しくしてくれて、時間をとっていろいろ話したり、一緒にご飯を食べたりしたんだ。
そういう雰囲気は、他にもあって、パパの留学のきっかけを作ってくれたRobin Skynnerさんとも親しくなったんだよ。何度もお家に呼んでくれて、会食したんだ。
一番初め、お家に行った時は、奥さんがいて、ふつうにしていたけど、ガンに侵されてるんだって平気な顔で言うんだよ。その後、奥さんは亡くなられて、しばらくしてから(2年後くらいかな)、新しいお家にママと一緒に訪ねたら、若い、新しい彼女が一緒にいたんだ。えっ、もう新しいパートナーがいるの!?って、ちょっとびっくりしたけど、とても幸せそうだったよ。そのあたり、とても自由な生き方をしているんだろうね。パパもそうなってもいい?
イギリスの人はあまりお魚を食べないのだけど、日本人だからお魚好きだろうって、美味しいサーモンをご馳走してくれたのを、今でもよく覚えているよ。

明日は、ママとパパが過ごしたロンドンのお気に入りの場所を紹介するね。なんか、観光案内みたいになっちゃうかもしれないけど。

Friday, February 13, 2009

ママの病気のこと

子どもたち。

昨日、書いたようにして、ママとパパはめでたく、幸せに結婚したんだよ。
シンデレラみたいなおとぎ話では、結婚するまでに困難とか戦いとかいろんなことがあって、最後は、
ふたりはついに結ばれ、ずっと幸せに暮らしました(happily ever after)!ちゃん、ちゃん。
で終わるでしょ。
でも、本当の結婚というのは、そうじゃなくて、結婚してからの方が大変なんだよ。
ママとパパも3年くらい付き合っている間にも、辛いこととかあったし、それに負けないくらいお互いに好きだったけど、結婚した後で振り返ってみると、それはごく表面的なことだったと思うよ。
結婚したら、ずっといっしょに生活を共にするし、お互いの親戚や友だちとの付き合いもたくさんでてきて、もっともっと、辛いことや大変なことが出てくるんだ。そうすると、もうイヤになっちゃって、離婚しちゃう人たちもたくさんいるし、離婚までいかなくても、もう家族のことは大変だからあまり深く関わらないで、お金だけ稼いでいようというような男の人もけっこういるんだ。表面的な結婚というのかな、それでもなんとなく生活できちゃう場合もあるんだよ。
でも、パパはそんな家族をたくさん見てきたので、そういうのはイヤだ、夫婦の間に辛いことがあっても真剣に向き合っていこうと思ったんだ。そうやって、ママとパパは、辛いことを乗り越えながら、本当の絆を深めていったんだよ。そうすれば、楽しいこともたくさん出てきて、本当に幸せになるんだ。
よく、結婚する前の人は、結婚したら自動的に幸せになれると勘違いしちゃうんだけど、そうじゃなくて、結婚してから、たくさん努力して、幸せをつかんでいくんだ。

そういう意味で、ママとパパが結婚してから直面した最初の大変な出来事は、ママの心臓の病気だったんだ。
振り返ってみれば、まだ付き合い始める前、JASCでアメリカに行ったとき、たしか、プリンストン大学の構内をみんなで歩いてご飯食べに行こうという時だったかな。友だちのみんなが歩いていくペースに、ママだけついていけなくて、ゆっくり歩いていたんだよ。パパは、あれどうしたの?と心配したのだけど、ママは「うん、最近ちょっと疲れていて....」というから、「ふ~ん、そうなんだ。一度、病院でちゃんと診てもらった方がいいよ。」なんて言ったことがあったんだ。
でも、その後、付き合っているときは特に疲れてもいないし、結婚前なのに、泊りがけでスキーやサイパンの海にも行ったりしたんだけどね。(ヘンなことはしてないよ!)

それで、新婚旅行でハワイに行ったんだ。本当は、ハワイなんかより、みんながあまり行かないところにしようと、フィジーを予約していたんだけど、急に内乱が始まっちゃって、間際になってハワイに行き先変更したんだ。ママは、子どもの頃行ったことあったけど、パパはハワイ初めてだったから、それでもいいかなと思って。
ワイキキに泊まり、新婚カップルっぽく屋根がないオープンのレンタカーを借りて、ドライブして、ハナウマ湾という有名な観光スポットに行ったんだ。駐車場に停めて、海岸までかなり階段を降りて、散歩したあと、また階段をたくさん昇ったんだけど、ママは途中で止まっちゃうんだよね。「あれ、どうしたの?」とパパは心配したのだけど、ママは、大丈夫とか言ってあまり気にしていなかったみたい。
新婚旅行から帰って来て、生活が始まり、ふだんは元気なんだけど、時々調子が悪くなっちゃうので、パパの大学時代の友だちに相談して、虎の門病院で精密検査してもらったんだ。はじめは、どこに異常があるのかよくわからなかったんだけど、よ~く調べてもらったら、心臓の周りの血管(冠状動脈)がブドウの房のようにボコボコに膨らんでいたり狭まっているのがわかったんだ(動脈瘤)。えっ、これなに!!って病院の先生もびっくりして、ママとパパもとてもびっくり仰天。こうなる原因として、川崎病というのが考えられると先生は言っていたよ。それは、まだ原因がよくわかっていない、小さい子どもに熱や発疹が出る病気なんだ。ふつうは大したことのない病気なんだけど、時々、心臓の血管に動脈瘤という合併症がでてくるんだ。どうも、それなんじゃないかって、先生がママのご両親に尋ねたんだけど、さあ、そんなこと覚えていませんけど、とおばあちゃんは困っていたよ。たぶん、川崎病にかかったとしても、はしかやみずぼうそうなんかと区別つきにくいから、よくわからなかったのだと思う。ママが中学生の頃、肝臓病で、2-3週間学校を休んで寝込んだことがあったんだって。それも、後から考えてたら、心臓の筋肉に小さな梗塞が起きて、肝臓病と間違えたという可能性もあったのかもしれない。
そんな話を先生から聞いて、ママのご両親は、親の責任なんでしょうか??と、とても心を痛めたけど、別に親のせいじゃなくて、防ぎようのない病気だったんだ。

で、とにかく、このままじゃまずいからと、バイパス手術をすることになったんだ。それが、結婚してから8ヶ月後のことだったよ。今から考えれば、それもすごい大手術だったと思う。何しろ、心臓をいったん止めて、太ももから取ってきた血管をつなぎ合わせるんだから。入院して手術して退院するまで1ヶ月半くらいかかったよ。術後はCCUという集中治療室にもけっこういたし。ママ死んじゃった今から振り返れば、すごい大変な病気だったんだと改めて思うけど、当時はママもパパもそんな風には考えていなくて、大変だけどどうにかなるだろうと楽観的に考えていたんだ。
手術はうまく成功して、ママは元気を取り戻したよ。要するに、血管が細くても、血液がうまく流れれば全く問題ないからね。

その後も、何度かあれっと思うときはあったんだ。イギリスに行ってからも、またちょっとおかしくなって、再手術をしたんだ。1回目のときのような胸を開く手術じゃなくて、足の動脈から細い管を入れ、コイル状の金属を細くして心臓まで送り、血管が狭まり細くなっている部分でパカッと開く、ステントという手術だったよ。今では結構さかんに行われているらしいけど、当時はまだ珍しい最新式の方法だったみたい。その時は確か一週間も入院しなかったかな。それも、うまくいって。
しかも、治療費がタダだったんだよ!イギリスにはNHS (National Health Service)といって、医療費を全部税金でまかなってくれていたんだ。しかも、ママのような外国人でも、イギリスに住んでいればその恩恵を受けられたんだ。そのシステムはタダなんだけど、ふつうすごく待たされたりしてあまり評判良くなかったんだけど、ママの場合は、特殊な病気で、お医者さんも興味があったんじゃないかな。あまり待たず、すぐにやってくれて。その点ではイギリスにすごく感謝してます。
その後も、薬はずっと飲んでいたものの、元気になっちゃえばぜんぜん問題なく、スキーやダイビング(シュノーケルだけだけど)とか、パパがアウトドア派だから、登山や自転車とかいろいろつき合わせちゃって、それでもちゃんとふつうに運動も楽しんでいたよ。子どもたちからみても、ママが病気っぽいなんてぜんぜん思わなかったでしょ!?

でも、こうやって死んじゃってから振り返れば、ママの心臓は、常に危険と隣り合わせだったのかもしれない。そんなこと、今から言ったって遅いけどね。
でも、逆に考えれば、ときどき病院に駆けつけたりしたけど、病気のせいでずっと寝込むこともなかったし、仕事もがんばっていたし。何より、君たち3人の子どもをちゃんと産んで、育てたんだから、すごく偉かったよね。ママちゃんはとてもがんばったんだ!!

これが、ママとパパが直面した辛かったことのひとつ。
でも、その時はあんまり辛いという感覚なかったけどね。

でも、そんなことばかりじゃないよ。
とても楽しく、幸せだったこともたくさんあったんだ。
次は、そんな楽しい話をしてあげるね。