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Monday, January 18, 2016

父の終焉日記:1月17日

じいちゃんは、ゆっくり理性がはがれ落ちてきているって感じかな。
身体機能はまあまあ落ち着いてはいる。血圧が90代でちょっと低めだが、もともと血圧は低めの人だからまあ許容範囲かな。
むしろ、精神機能が下りてきている。
病院に入院していた方が合理的な看護・医療を受けられるけど、患者本人にとってはアウェーの感覚、緊張しなければならない。家庭にいればホームだからリラックスできるし、サポーターもたくさんいる。ホームにいれるじいちゃんにとっては良い環境なんだよ。
リラックスできるって、のんびり、本来の自分が出せる、いつわらない素の自分でいれる、緊張感を下げられるってことは、理性をあまり使わなくて良い状態なわけ。
特に夜間が緊張レベルが下がるんでしょうね、夜から朝にかけてがわけがわかんなくなっちゃう。
「おばあちゃん、お水ちょうだい。」
「もうオレ、外に出たいよ。中にいるのやだよ。」
「子どもの頃の自分が一番良かったから、、、」
昼間に、ヘルパーさんや外部の人が入ると、多少は理性を戻して普通に振る舞ったりするんだよ。特に看護師さんが若い女性ですごく元気がいい。訪問看護でこういう老人との関わりに慣れているんだろうね。わざとやってんのか、テンションを上げて接してくれるわけ。するとじいちゃんもばあちゃんもつられてテンションを上げられるというか、笑いも出たりして良いんですよ。
いずれにせよ、ホームに居られるじいちゃんには良い環境で、安心して降りて行けるんだ。

問題は、ばあちゃんなんだ。看護師、医師、ケアマネ、ヘルパー、リハビリマッサージ、訪問入浴、、、ホームにたくさんの外部の人がやってきて、ばあちゃんにとってはホームがアウェーになっちゃった。
通常の体力・聴力・理性・精神力があればその緊張にも対応できて、じいちゃんをひとりで看なくて良いから楽になる筈なんだけど、むしろばあちゃんにとっては、そういうたくさんの人たちに対応しなくちゃいけないということが過大なストレスになっている。ばあちゃんにもプライドがあるんだ。家に来る人はばあちゃんが主婦(ゲートキーパー)としてしっかり把握したいけど、一度にどっと押し寄せたもので、ばあちゃんのキャパを越えてしまったんだ。
でも、ばあちゃんはまだ適応力が残っているから、多少時間をかけて慣れてくれれば良いなと思っている。

Saturday, January 16, 2016

父の終焉日記:1月15日

子どもと姪たち(つまりおじいちゃんの5人の孫たち)へ

おじいちゃんの最後は、おばあちゃんと子ども二人(私とおばちゃん)で看取るから、孫たちはそこまで参加しなくても良いよ。もちろんしたければしても良いけど、自分自身の生活もあるでしょう。でも、おじいちゃんのことをは気になるよな。私からLINEで逐一報告しても良いのだけど、そうすると必然的に関わらせてしまうことになるでしょう。だから、こっちの場で報告しておくね。そうすれば、見たいときに読みに来れるし、忙しくて読みたくない時は読まなくて済むから、自分のペースでじいちゃんのことに関わって下さい。

1月12日は私が一日休みを取って、午前中に日赤を退院して介護タクシーで家に連れて帰り、訪問看護師とケアマネさんとヘルパーさんと、みんな呼んで、家で作戦会議を開いたんだ。看護師さんには入院前の週3日から毎日に増やしてもらい、ヘルパーさんも新たに毎日朝と晩に2回ずつ入ってもらう。医者の往診は以前と同じで週1回。

うちの場合は、病院にまかせちゃったが、そりゃ自分ちで死ねたらお父さんも幸せだろうな。

じいちゃん本人にしてはそれが一番良いし、耳が遠くて外出や人との会話が大きな負担になるばあちゃんにとっても病院まで見舞いに行かなくて済むという点では都合は良いのだが、病院で専門のスタッフが看護してくれる分を家でやるってかなり大変なんだよね。それをカバーするのが介護保険で、在宅介護・在宅医療も最近はかなり体制が整えられてきた。でも、問題はそのやり方にじいちゃん・ばあちゃんが慣れるかってこと。
じいちゃんはそれほど抵抗ないというか、受け身でケアされるのは病院でも自宅でも変わらないから楽チンなのだが、問題は耳の遠いばあちゃん。いろんなスタッフが入れ替わり立ち替わり家に入るのはかなり負担なようだ。スタッフとの作戦会議の場で感情的にキレて、「みんなでよってたかって、そんなのイヤだ!」と言っていたが、ばあちゃんには合理的に考える力は衰え、不安感情に支配されている。子どもを諭すように言い聞かせて、慣れてもらうしかない。

じいちゃんは認知症は入ってなく、ちゃんと考えられるはずなんだけど、生きる意欲の低下とともに、せん妄状態に入ってきた感じ。「せん妄」とは認知症とは違うんだけど、意識レベルが低下して、幻覚や妄想が出てきてしまうんだ。特に夜にそうなるのが「夜間せん妄」といって高齢者や重い病気の人にみられることがある。一時的にわかんなくなっちゃうけど、昼間になればもとにもどる。病院でも何度かベッドから落ちちゃったらしい。家でも夜中の2時くらいに下のばあちゃんから私にインターフォンが入って「たけし、すぐ来て!」というんだ。今度は何が起きたのだろうかとドキドキで一階に降りると、じいちゃんがベッドの隣の床に寝てるんだ。2階に寝ているばあちゃんは夜中も心配で時々じいちゃんを見に来るんだ。じいちゃんは意識はあって、ヘラヘラしながらこっちをじっと見ている。「じいちゃん、どうしたの?なぜ床で寝ているの?」と尋ねても、「うん?何だよ?俺は死んじゃったんだよ。ここは死んでるのか?」と的外れな応答だ。仕方がないので抱きかかえてベッドに戻したら、「ありがとう」。ばあちゃんを2階に戻して、しばらくそばにいて様子をみていると、「たけし君、もう大丈夫だから行って良いよ。」だいぶせん妄が回復して正気に戻ってきたようだ。この間、小一時間ほどでボクもじいちゃんのところを離れた。

上に戻ってもしばらく寝られずメール書いたりしながら考えていたんだ。じいちゃんもばあちゃんも、すっかり子どもに戻っちゃったってね。「ベンジャミン・バトン」っていう映画ちょっと前にあったの知ってる?主演のブラッド・ピットが老人で生まれて、年取るごとにだんだん若返ってきて、赤ちゃんになって一生を終わるっていうストーリー。
じいちゃんもそんな感じだなって思ったね。親子が逆転しちゃった。私が小さい頃は父親が大人だったけど、今は私が大人でおじいちゃんが子どもになっちゃった。そんなおじいちゃんを抱きかかえていると、昔の記憶が何となくよみがえるんだよね。
私が2歳の時、生まれてきたりょうこおばちゃんにママを取られて、パパと寝るようになったんだ。2歳まではママのおっぱいを触って寝ていたんだろうね、その記憶はないんだけど、おじいちゃんのおっぱいを触っていた記憶はあるんだ。4歳、5歳くらいになってもずっとそうすると安心して、子どもながらに恥ずかしかったけどやめられない。もし小学生になってもパパのおっぱいを触るのやめられなかったらどうしよう、、、と焦っていたことは憶えている。今だから言えるけど、子ども時代は恥ずかしくてこのことは誰にも言えなかったんだ。
ふつうだと、幼児は母親に主な愛着を向けるのだけど、私の場合、専業主婦で接する時間が長かったママもだけど、パパともこうやって幼児期の基本的な身体的愛着が形成されていた。その後もスキーに行ったり、いろいろ触れ合った思い出がある。私が小さい頃は、父親が優しく身近に居てくれたんだ。今は立場が逆転して、小さくなった父親のそばに居るだけなのかなって、そんなことを考えていたよ。

子どもが生まれ眠りから覚め、成長してだんだんわけがわかってくる頃、まわりに家族がいて安心して成長した。
それと同じように、人生の終わりにだんだんわけがわかんなくなってきて、まわりに家族がいて安心して眠りについていくんだろうね。

今、おじいちゃんはベッドに寝たきりだ。トイレさえ行けずにおむつだし、食事もほとんどとらなくなった。今おじいちゃんが唯一できることは、
「おばあちゃん、喉がかわいた。お水ちょうだい。」
幼児の様に妻に甘える。
するとおばあちゃんは「はいはい」と文句も言わず、じいちゃんの面倒を見てやる。
じいちゃんは、「ありがとう」と満足そう。
そんなやり取りだけが残っちゃったんだよね、今のじいちゃんは。

Friday, January 15, 2016

父の終焉日記2

2016年1月8日
いよいよ、最後の時になった。
7日の早朝にトイレに行こうとして倒れ、起き上がれなくなった。
昼に往診に来た医師の判断で日赤に緊急入院となった。
おいおい、自宅を「終の住処」するはずじゃなかったのかよ!?
病院に運べば、そこで終わってしまう。
年末12月にも外来で貧血が見つかり、入院したけど、輸血しただけであえて検査もせずに退院した。もうそれで日赤の通院は卒業したはずだったんだけど、今回は在宅医の判断で病院に運ばれてしまった。
あえて追求はしないけど、脳内出血による片麻痺を疑ったではないだろうか?
それを確認するための検査が目的だったんだろうか?
よくわからないけど、まあ良いや。

家族の死に向き合うのはとても辛い。
優子の時よりははるかに楽とはいえ、一応、気持ちを、書き出すニーズがあるレベルには達している。

入院した父は、生きるエネルギーが一晩で落ちた。
初日は妻を気遣う余裕もあり、おばあちゃんに迷惑かけるから、入院でも良いかなと言っていたのに、二日目になると駄々っ子みたいな自己中になり、「家に帰りたい」の一辺倒だ。右上腕が麻痺してしまった。そのことが父自身ショックで、がんばる意欲を失わせたようだ。

父の終焉日記(2015年分)

2015年6月17日
先週はシンガポールに出張だった。出張先からも毎朝定期便で両親に電話する。すると、手足がしびれるという。ボクがいなくなるといろんな症状が出て来るんだ。心気症か!?
日曜日に帰国して、念のため近所の日赤病院の休日診療に連れて行った。たいしたことないと思ったんだけど、当直医が首のレントゲンとCTとを撮ったら、頸椎のひとつが潰れていて、ガンの転移による圧迫骨折だろうということになった。 脊髄を圧迫したら四肢の痛みだけでなく麻痺がくるから絶対安静が必要だ。検査目的ということで入院したんだ。入院してからは自覚症状的には痛みはおさまり、今のところ個室の部屋で元気にしてる。

これから緩和ケアが始まる。

今までの肺の転移はほっておいても悪さをしなかったけど、今回のは悪さをするからね。脊髄が圧迫されないように放射線か薬を使うことになる。手術は父親自身もうしたくないと言うし、骨転移まできているから、医学的にも年齢的にも手術の適応外でしょう。いずれにせよ安静にしなくてはいけない。今後、進行が食い止められれば多少は動けるかもしれないけど、今までのような自由な日常生活ではなくなって、徐々に病人らしくなっていくのだろう。
カウントダウンが始まった。

6月23日
人は、だんだんとその機能を、それと共に人間らしさを失って行く。
父は30年前に片方の腎臓を、10年ほど(?)前に膵臓を失ったけど、人としてそれほど失ったものは少なかった、というか目立たなかった。
でも、今回の転移で、一気に失われた。
絶対安静。家に帰れるかもしれないけど、自由に動いて犬の散歩や外出できなくなる。
すぐに、あるいはしばらく先か、いずれにせよ手足の麻痺がくるだろう。そうすると寝たきりになる。日常生活の活動が大幅に失われる。
でも、思考能力とか意思の力とか現実検討能力とかは正常に保たれている。生きる気力も。
でも、これで寝たきりになれば、病人っぽくなるだろう。
あとは、痛みのコントロール、いわゆる緩和ケアだ。身体的な苦痛がなければまだいいのだが、痛みが出てくると生きながらえる気力もかなり減退する。そうやって最後は存在そのものが失われる。
少しずつ、部分的に失われていくんだよな。
優子は、その点ラッキーだよな。いきなり全部失ったから。自分が少しずつ失われて小さくなっていくななんて感じるヒマさえなかったもの。
でも、そのために、我々は大切な家族を失った。それも重大な喪失だった。
母親は思考能力・現実検討能力や生活能力(衣食住)は正常に保たれている。
しかし、聴力と運動能力(どこがどうということないけど、全体的にもうかなりよぼよぼしてる)、それに精神力が失われつつある。肯定的に見通すことができず、不安が先行して、心配ばかりしている。

6月26日
父親は頸椎の放射線治療を受けて退院になった。
今のところ痛みも治まり、特にイヤな症状もなくて家で普通に暮らしてる。
放射線治療は痛みを止める効果はあっても、腫瘍を縮める効果は少ない。やがて腫瘍が大きくなれば脊髄を圧迫して痛みや四肢麻痺がくる。早く来るか、遅く来るかは分からないけど、いずれは来るでしょう。もう麻薬系鎮痛剤も使っている。緩和医療もこれから本格化する。一旦、良くなった時期がしばらく続いて、次に悪くなった時はかなり悪くて、、、みたいな感じで進行するんじゃないかな。

ボクはこれから台北、イタリア、オーストラリア、トルコ、台湾、ハワイ、ベルリンと、海外出張は目白押しなんだ。
在宅看護・在宅医療をオヤジに勧めている。いわゆる在宅ホスピス、最後まで家で看取るってやつ。7−80年前まではもともと家で産まれて、家で死んでいた。その後、病院や施設でのケアが一般的になり、最近は、また家でやりましょう、その方が安らぐからって感じで、在宅医療(昔で言えば往診)してくれる医療機関もけっこう出てきた。週3回くらい看護師さんが往診してくれて、週1回くらい医者も来てくれる。いよいよになれば24時間耐性でやってくれるんだ。
そうしないと、ボクが出られないからね。ボクが不在だと、母親はあたふた、何も対応できない。前回だって、シンガポール中にオヤジの四肢の痛みが来て、帰国した日に救急外来に連れて行ったんだ。だからといって、ボクがやりたいことをやらずに親のそばに居るってわけにいかない。母親は家族のそばに居ることが生きがいだった。そのために生きてきた。自分のことなんかなくて、夫を看て、看取ることが唯一の使命だ。

Filial Piety(親孝行)
「孝」の考え方はアジアの家族に特徴的で、欧米には希薄だ。そのことはシンガポールや今回の台北でも講演するテーマのひとつだ。「親孝行」なんて古くさいイメージだけど、文化の根底に根づいているからしかたがな。アジアの国々もそのあたりは似ている。欧米では二十歳前後で親から自立して離れていく。アジアの親子は良い意味でも悪い意味で一生ものだ。家族の病理もみんな親子を基軸にしている。ひきこもりは、親がずっと子どもを面倒見続けている病理だ。
オレだってそうだ。二世帯家族で、優子が亡くなり、一世帯の大家族になり、孫のメシを作ってもらって、老親のケアをする。そういった親子の結びつきというプロセスはみな相似形で、そこに葛藤があるかないかだけの違いなんだ。

元気で健康な時はみんなソロでいられる。家族はバラバラでも構わない。誰かが弱くなった時に家族の凝集性は高まる。もともと弱者(子ども・高齢者)のケアは家族の役割だった。ボクの祖父母はそうやって大家族の中で看取られていった。祖父母も子ども・孫家族がみんな一緒にいた。家族はそうするものだったんだ。
もし優子がいたら、父親のケアについてもっと家族でガタガタしていたと思う。なにしろ、家族ケアは女性の役割だったから。母親も「優子さん」に期待していたと思う。息子のボクはオトコだから本来免除されているんだけど、ケアすれば「親孝行息子」としてedxtra creditがつくだけだ。お嫁さんがいるのに在宅看護なんて外注したら「そんなのいいわよ、お嫁さんに看てもらうから。」みたいな選択肢が出来てしまう。お嫁さんとしてはそんなことやりたくないけど、やらねばならないし、あなたがどうにかしてよ、、、という葛藤が生じる。

親子の伝統って、別にアジアだけでもない。欧米だって病院よりは、家にいて家族に看取られたいでしょ。そういう願いは世界共通なのだろう。

8月31日
朝、日赤へ父の付き添いで行く。
父親ひとりで行けるのだが、付いて来てほしいという希望だ。
父親は自分で判断する精神力を失いつつある。重要な判断はすべて息子に頼っている。まあ僕が医者だということもあるけど。
大森日赤は地域の中核病院だ。待合室には当然老人が多い。正面にも父・息子が坐っている。私と同年代らしき息子が車椅子の父親を連れている。何も会話するわけじゃない、ただ黙って父親のとなりにちょこんと座っているだけだ。僕と同じ姿だね。

父親はすっかり気が弱くなっている。身体の痛みにおびえている。
「ちょっと肩や手がしびれるんですけど。」
痛みに敏感になっている。

Sunday, January 3, 2016

7年目

優子、草津に来ているよ。
7年前と全く同じなんだよ。
元日に親戚みんなで集まって。
二日から二泊三日で草津に来た。7年前は優子と祐馬とじんで来て、ちゅけは受験で留守番だった。
今回はちゅけと祐馬で来て、じんは家に居残った、あとカイも来てるよ。
二日の晩は草津の家に泊まり、三日に万座で滑って万座プリンスに泊まる予定だったんだ。
今回はスキーはしないよ。暖冬であまりできないみたいだし、出来たとしても今回はスキーはせずにのんびりするつもりだよ。
いつもの定番の草津生活。元気があれば朝風呂に出かけ、家の回りを散歩して、「そば処風」で十割そばを食べて、大滝の湯の熱い「合わせ湯」に入って。
7年前とやることは殆ど変わっていない。
変わったのは3人の子どもたちの成長ぶりだよ。あの時は中学生と小学生×2だった。今は大学生×2と高校生だぜ。ちゅけなんか久しぶりの草津だとか言ってるから、もしかしたらこの7年間来ていなかったんじゃないか?
ボクは毎年2−3回は来続けている。
ボクは変わったのか?
こうやって優子と向き合うボクの時間は7年間止まっている。
しかし、優子を抜かしたボクの人生はどんどん前に進んでいるよ。
優子がいなくなったおかげで、出合った人もいる。
べつに悲しんでいるヒマも必要性もなくなってきてはいる。
「7年前の今日にママが昇天した万座の場所に行ってみるか?」
子どもたちに提案しても良いけど、なんと答えるかな。「べつに良いよ」「パパ、まだそんなことにこだわっているの?」くらいの反応だろうか。

多分、今年中には父親を失うだろう。自宅での緩和ケアの段階だ。
「パパ、なんでそのことばかり言うの?しつこくて祐馬いやなんだけど、、、」
祐馬ね、こうやって前々から話していた方が楽なんだよ。ママの時は突然だったから大変だったじゃん!
父親は私の人生にとって過去に大切な人だったけど、今、生きていく上で必要な人ではない。むしろ、父親にとって自宅でケアする息子が必要な人だ。親子のケア関係が逆転した。
優子は私の人生にとって現在進行形で大切で、必要な人だった。

今日は草津でのんびりしよう。スキーはせずに、ゆっくりお風呂に浸かって。
今、ボクにとって一番大切な人は三人の子どもたちだ。
祐馬が帰って来ている。今は子ども時代と変わりなく、当たり前に普通に一緒にいるけど、5日後にはメルボルンに戻ってしまう。次に会えるのは来年になるかなぁ。もっともSkypeやLINEではしょっちゅう話しているけれど。彼女の居場所はもうここじゃないんだよ。世界なんだ。信じられないけど。

子どもたちに尋ねてみた。今日はママの命日だよ。
ちゅけ「7年かぁ。」
祐馬「ラッキー・セブン」
べつにラッキーでもないんですけど。
万座に行ってみるか?
祐馬「やだ!」
ちゅけ「そうさなあ。ボクはいなかったからなぁ。」
バパは別に行かなくてもいいかな。けっこう1時間くらいかかるし。
ちゅけ「なら、なぜ聞くんだよ!」

幸せって何?
どうやったら幸せになれるの?
人ひとりでは、幸せ感は成り立たない。そりゃ、美味しいものを食べたり、チャリやスキーそれ自体も楽しくはあるが、それを共に楽しむ人がいて、幸せは成り立つ。大切な人が幸せだと、自分も幸せになれる。幸せ感を具現化してくれる対象が必要なんだ。
そういう意味じゃ、私が幸せに出来る人はたくさんいる。幸せを見失ったクライエントとか。
大切な人と一緒にいること自体が幸せではない。
祐馬と離れていたって、遠くで祐馬が幸せであればパパも幸せだよ。それで良いんだ。
でも、大切な人を大切に感じるためには一緒にいないといけない。
子どもたちが小さい頃は、一緒にいないとどうしようもなかったからね。それが家族なんだよ。
でも、成長しつつある今は、一緒にいる必要もない。少なくとも上ふたりは。高校生のじんだって、一緒に生活しているからこそ、しゃべらなくても一体感が成り立つんだよ。

そうか、七回忌って仏教ではあったなぁ。実際は6年目らしいけど。
もうそんなに経っちゃったんだ。優子との時間は止まっているからわからない。
そんじゃ、やっぱ万座に今日行こうか?露天風呂にも入れるし。
でも、いいよね。草津の露天風呂と温泉まんじゅうでいいじゃん。万座まで行くの面倒だよ。
こうやって優子のことを想っていれば、それでいいし。
祐馬はすやすや昼寝している。ちゅけは外で焚き火している。

Friday, November 13, 2015

52歳の誕生日

優子

52歳の誕生日おめでとう!

今、メルボルンに来ているんだ。祐馬は目標を持ってしっかりやっているよ。こっちに来てまだ三ヶ月だけど、すでにパース(オーストラリア)とかケンタッキー(アメリカ)とかやってるから、海外生活もすっかり馴れているようだ。来年のこともしっかり見据えているようだ。

先週、じんの文化祭に行ってきた。ずっとお化け屋敷のオバケをやってたから会えなかったけどね。べつに顔を見なくても良いんだ。じんがやりがいを持って活躍してるのがわかればOKなんだ。パパがいない時も、おばあちゃんに頼らず、自分でメシも作っているよ。

ちゅけは就活で苦戦している。まあ院進学でも良いんだ。人生の選択の厳しさを味わっているはずだ。

3人(いや4人)ともそれぞれの道を頑張っている姿は、天国からでもわかるだろ?じいちゃんはもうぼちぼちそっちに行くとか言ってるるけど、もうしばらく粘れるかも。

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ちゅけと祐馬はいなくて、
じんとふたりだけの誕生会だったよ。
バースデーケーキ買えなくて、ダイシンのチーズケーキで代用した。
ロウソクやろうとしたら、じんが「やらなくていい!」って言うからやめたよ。
祐馬がいたら、「やる!」とか言い出すだろうけど、、、

Saturday, July 4, 2015

犬の散歩

わっ、半年ぶりの投稿だ!
今朝、じんが寝坊して「やべぇ!」と慌てて学校に行ったので、久しぶりにカイを散歩した。
保育園の前を通るコースなんだよね。保育園で一緒だった米屋の◯◯さんのお父さんと「おっ、久しぶり!!」とすれ違ったあたりから、当時の優子がよみがえって来た。
この道を子どもたちを連れて送り迎えしたよな。合計9年間も。
Tikiは講演とかでは父親の役割とか偉そうなこと言ってるけど、うちじゃ全然ダメじゃない!今週末はゴルフ行くし、1週間も海外出張なんてどうするつもりなの?私だって仕事があるのよ!他のお父さんたちは運動会の準備で行ったりしているのよ!
という声が天から降りて来た。

優子そんなこと言うけどねえ、、、その後の思春期の子育てがどんなだかわかってんの?
3人それぞれいろんなことをやらかしてくれるし。それを父親ひとりでやってんだよ!

告別式で、優子の写真に向けて「ふざけるな!」と叫んだシーンもよみがえってくる。
まあ、良いけどね。優子がいなくなったおかげで、いろんな人たちと出会えたよ。べつに君がいなくたって子どもたちとボクは生きていけるんだよ。

帰りの坂道に冬の雪の日に優子が車で子どもたちを送りにいって。
そんなところに駐めたら、スリップするぞ!!
言ったとおりにスリップしてたのを後の方から眺めていた。

坂道の途中にある小出さんのおばさんは、家の回りの花壇に水をやりながら、幼いちゅけが通るといつも声をかけ、「ちょっと待ってて!」と駄菓子を持って来てくれた。21歳になったちゅけもそのことはよく覚えているらしい。その小出さんの家も、今は空き家だ。

別に、もうブログに書く必要もないんだけどね。
散歩の途中、書こうと思ったから書いているけど、、、もう仕事に行かなくちゃ!!こんなこと書いているヒマはない。

Saturday, January 3, 2015

6年目

そう、この6年間は、僕の気持ちの問題だったんだ。
そういう意味でのブログはもう必要なくなった。

一昨日の元旦は、息子ふたりと三浦霊園の優子を訪ねたよ。久々だったよね。ちゅけは夏にひとりで、祐馬もアメリカに行く前にひとりで来ているから、親子で来たのはホント久しぶりだったよ。ちっとも変っていなかった。当たり前だけど。

昨日は優子側の親族と会食だった。お義母さん、元気そうだったよ。いまだに、生きがいを持ち続けているんだよね。80歳を過ぎて、立派だと思う。もう、義理の息子との関係はどうでもいいんだ。、、、よくもないか、お義母さんにもしも何かがあった時の出動要員としてはしっかり待機している。むしろ、子どもたちとの関係だね、大切なのは。祖母から孫たちへ。あんなにたくさんお年玉をもらっちゃって、ちゅけはびっくり。そう、お祖母ちゃんはね、お金持ちなんだよ。

昨日は飲み過ぎたから早く寝て、今朝は早く起きている。ちょうどいいや、ブログを書く時間がとれて。今日も忙しいんだよ。お昼はうちで親族10人が集まる。一応、華鳳で中華おせちを頼んだけど、食べ盛りの男の子たちのためにローストビーフと焼き豚を午前中に作らなくては。そう、6年前と同じ場所で、同じシーンが繰り返されるんだ。赤のジャージまで同じだよ。違うのは、優子が抜けて、姪の連れ合いが加わるだけだ。あと、じんが異様に大きくなった。

気持ちが繋がったんだ。
6年前、急に僕の身体の半分が失われ、ちぎれた断片から愛着の血がジョボジョボ流れ出していた。それを家族や、友だちや、セラピストや、ブログという受け皿で掬い取って必死に還元していたんだ。でも、もうその必要がなくなったんだよ。

年末に万座プリンスを訪ねた。6年目にしてやっと再訪することができた。万座山ゲレンデというんだね、優子が昇天した場所は。そう、こんな風景だったよ。6年前のイメージはしっかり今でも焼き付いている。ちょっと立体感は乏しかったけどね。花を手向けてきた。そして、6年前は果たせなかった絶景露天風呂に入り、一泊してきたよ。6年前は夜中に引き上げなくちゃならなかったからね。そこから再スタートできるんだ。宿にも6年前のお礼を残しておいた。

そんな、無理して繋げようとしなくて良いのよ!

いや、繋げたいんだよ。というかもう繋がってしまった。いま、優子への気持ちは閉ざされた居場所にしっかり受け止められ、うまく循環するようになったんだ。もう、こぼれ出てブログに受け止めてもらう必要はない。

もし今後もブログが必要な場面が出てくるとすれは、子どもたちとの循環だね。でも、それは父親である私がしっかり受け止めているはずだ。だとすれば、必要になるのは子どもたちが巣立つ時。

3人ともそれぞれ部分的に、巣立ち始めている。ちゅけは北海道でスキューバと居酒屋のバイトで。祐馬はケンタッキー州、そしてメルボルンへ。じんはまだこれからだけど、柔道と総合格闘技へ。自分の世界を持ち始めている。ジャンプするためには、愛着というしっかりした踏み台が必要なんだ。そこがふにゃふにゃだと勢いを込めて踏み切ることができない。そういう意味で、僕自身のジャンプのためには老親ふたりがしっかりと踏み台になってくれている。

やがて子どもたちは親から離れていくのだろうか?
いや、アジアの親子は離れはしないんだよ。距離感が変化するだけだ。至近距離で保護するポジションから、遠く離れて安心して見守るポジションへ。

6年間なんて、あっという間だったよ。
ネルソン・マンデラは27年間も獄中にいたんだ。
ヴィクトル・フランクルは3年間、強制収容所にいたんだ。、、、3年間か、、、
その後に、十分、再スタートできるんだ。

Friday, December 26, 2014

ご厚意のお品、ありがとうございます。

〇 〇 様

ご厚意のお品が届きました。
いつも、どうもありがとうございます。

早いもので、もう6年が経ちます。
私も、ブログを書く必要性がだんだん薄れてきています。
私と子どもたちを含め、優子の記憶が人々の中から薄れていく中で、とても嬉しく思います。
お正月には優子の墓参りに行きますので、お供えさせていただきます。

Saturday, December 6, 2014

優子のビデオ

参加者から頂いた感想を紹介いたします。

  • 痛みは閉じ込めるのではなく、安全な環境下でメスを入れ、安全に取り出していくことによって乗り越えられるもの。
  • 戦争体験や震災の大きな傷は人と共有することによって乗り越えられる。人と人とのコミュニケーション、言葉かけの中から生じるものであることを改めて気づかされた。
  • 人によって傷つけられた痛みは、人によって癒される。人に愛を分け与えることにより、自分も愛をもらう。「あなたのことをちゃんと認めているよ。聴いているよ。」という立場でいのちの電話の相談員として活動していこうと思った。

 これは私がまさに皆さんにお伝えしたかったことです。
 人は無傷では生きていけません。失敗したり、他人から否定され自尊心が傷つけられたり、大切な人や物を失うなど、さまざまな痛みを大なり小なり体験します。人は誰でも痛みを自分で乗り越える力を持っています。辛さをこらえ、なんとか痛みを自分の力で乗り越えた時、それが成功体験となり自信を獲得して、心が成長します。つまり、傷つき体験が成長の糧となります。
  • 最愛の方を失った時の葬儀のビデオは心を打ちました。ご家族を亡くされた痛みを私たちに出していただき、そこからどのように傷ついている人を救うのか示唆していただきました。

 5年前に妻を亡くしてから、全国各地のいのちの電話で講演するときはいつもその話をしてきました。心の痛みを放出しても構わないという具体例を、私自身の体験をもとにみなさんに伝えたかったのです。それは参加者のためでもあり、私自身のためでもあります。
 5年前に突然襲ってきた大きな悲しみにどう対処して良いのかわかりませんでした。いや、理屈ではわかっています。そのような喪失で苦しむ人たちに数多く出合い、支援してきたから。
 私は自分がうつになることが恐かった。「うつ」になることがどんなに辛いことなのか、仕事も人間関係も、毎日の生活が成り立たなくなってしまう。思春期に入ったばかりの子どもたち3人がいる。ひとり親がうつになることだけは避けたい。悲しみを閉ざしていたら「うつ」になることはわかっていました。できるだけ悲しみを開きたい。安全に放出したい。私は必死でした。
 それまでカウンセラーとして、自分の隠れた気持ちを意識化して表現するトレーニングをたくさん受けてきました。一般の人よりも、自己表出には慣れています。あらゆる機会を利用しました。
 子どもたちが過ごした保育園のパパママ仲間たち、子どもたちは卒園していても、親どうしの繋がりは続いていました。亡くなった翌日から、親たちが私のうちに集まり、ご飯を作ってくれたり、葬儀の知らせを手分けして連絡してくれたり、ほとんど機能停止状態に陥っている私と子どもたちを支えてくれました。

 その保育園パパのひとりが気持ちを書き表してみたら良いよとブログを勧めてくれました。それまでブログを作ったことは何度かありましたが、長続きしませんでした。今回は、長続きしました。友だちや葬儀に来てくれた人たちに読んでもらいました。自分の気持ちを表現して、それを見守ってもらう。始めはたくさん書いていたけど、今はもうあまり書いていませんが、でも時々書き続けています。
 悲嘆カウンセリングも受けました。普段は私がカウンセラー役ですが、今回は私がクライエントです。たくさん気持ちを表現してカウンセラーに受け止めてもらいました。

 葬儀も、今から考えれば異常というか、やり過ぎです。ふつう、喪主はなにもせず、黙ってうつむき、悲しみを表現します。私はそんなやり方は耐えられなかった。葬式まで自己表現の場に使ってしまいました。必死だったのです。今でも、その気持ちは続いているかもしれません。
 普通、簡単に済ませる遺族からのメッセージも、やたらたくさん書きました。
 葬儀の様子を友人のカメラマンに頼んで、録画してもらいました。私は妻を失うことが耐えられませんでした。葬式という場さえ失うことがイヤだった。だから、葬式の様子を失いたくない。記録しておきたかったのです。通夜と告別式の様子を丁寧に編集して、1時間ほどのDVDに焼いてくれました。
 しかし、それを観る気持ちにはこの5年間なれませんでした。葬式の時の悲しい気持ちに戻ってしまうことが恐かったのです。でもいつかはそこから抜け出したいと思っていました。

 封印していたビデオを始めてみたのはつい最近でした。韓国に呼ばれ、心の支援者向けに東日本大震災の講演をしました。韓国では船が転覆し、多くの命が一度に奪われました。大災害の後の心のケアについて日本の経験を話して欲しいということです。私が話したかったことは「怒り」についてです。韓国のニュースを見聞きすると、船長や船主ばかりでなく、政府にまで多くの怒りが渦巻いています。怒りの根底には必ず不安・悲しみがあります。悲しみの表現型としての怒り。これは仕方がないことなんです。悲しみは自分自身の気持ちの表現ですが、怒りは、それが他者に向けられます。怒りを向けられた他者を傷つけてしまいます。できればそれは避けたい。でも、悲しみの気持ちを表現するためには、怒りも仕方がないんです。日本でも、震災後、東京電力や政府に対して多くの怒りが向けられました。
 そのあたりのメカニズムをどのように紹介しようか考えていたら、そういえば優子の葬式でずいぶん怒っていたことを思い出しました。
 それを見せたい。でも、自分で再び葬式のシーンを甦らせる勇気が出ませんでした。そこで、講演の1週間前に、しっかり受け止めてくれる人に傍にいてもらい、観ることができました。一回、観てしまえば、あとはひとりでも観ることができます。それで、今回の講演でも紹介することにしました。
 私は、講演を聴いてくれるみなさんに「愛」を伝えたかったんです。我々はいろんな繋がりの中で生きています。優子を失って、そのことがよくわかりました。私の一番大切なつながりが切れてしまったので、今まで繋がっていたことがよくわかり、その後はこうやって必死に繋がりを求めていたんです。いのちの電話での電話線を介した繋がりも、そして、私が演題に立ち、こうやってみなさんに語りかけているのも、結局は「愛」を伝えているんです。普段の仕事もそうです。クライエントの話を伺い、私からもいろいろ伝えていることは「愛」なんだなと最近思うようになりました。